宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

革命の消化試合、あるいは聴くことと書くこと——映画『罪の声』感想

罪の声 (講談社文庫)

 『罪の声』をみました。以下、感想。

  押入れの奥にしまい込まれた、古びたカセットテープ。幼いころの思い出のひとかけらかと思われたその中身が、男を思わぬ過去へと連れ戻す。かつて日本列島を震撼させた、連続企業脅迫事件。迷宮入りしたその事件で脅迫に使われたのは、他ならぬ、男自身の声だった。ちょうどそのころ、新聞記者たちもその事件の関係者を探り始めていた。

 塩田武士による同名小説を、『麒麟の翼』の土井裕泰監督、『逃げ恥』『アンナチュラル』の野木亜紀子脚本の座組で映画化。原作を読んで時間が経ってしまったので細部は忘却の彼方だが、筋はおおむね原作通りという感じ。グリコ森永事件をモチーフにした未解決事件をテイラーの主人星野源と、新聞記者小栗旬が追う。カメラは俳優に接近し、全体として息苦しい閉塞感が画面に漂う。

 事件の「真相」として提示される主犯の動機は、在りし日の「革命」——1968年前後に大きな盛り上がりをみせた学生運動——の延長戦、というふうに要約してよいものだと思うが、これに対してこの映画は非常に冷淡である。資本主義打倒、政治の変革を目指した彼らの行動は、結局のところ、企業の勤め人をいたずらに苦しめ、そして子どもの人生をめちゃくちゃにしただけだった。革命の延長戦として戦おうとした彼らはその実、愚かな消化試合を戦っているにすぎなかったのだ——。

 この劇場型犯罪は、結局のところ子どもが犠牲者であった、というのが原作者自身がこの『罪の声』を書いた大きな動機であると語っていたように記憶しているので、そこからこうした論理が導かれるのはまあそうだろう、と思う。「革命」を気取った学生の「行動」が、結局政府組織の末端の末端の命を奪っただけだった、というのは、たとえば『マイ・バック・ページ』で描かれたことでもあるし、1968年の学生運動は結局のところ「自分探し」が政治運動という形式をとったにすぎなかったのだと、小熊英二は『1968』で喝破した。その意味で、『罪の声』の「反革命」のロジックは政治的に正しいだろう。まったく反論の余地はない、と思う。

 しかしここで、子どもをある種の「人質」にして「革命」が非難されていることにややすわりの悪い感じはするし、また神山健治攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』が同じくグリコ森永事件をモチーフにしつつ、「革命」の初発の動機そのものの価値は認めつつも、それが資本主義のシステムに巧妙に回収されていくさまを描いていたことを考えると、神山の描いた絵のほうが現代的に洗練されているのではなかろうか(これは例えばピンチョン『インヒアレント・ヴァイス』などとも共通する構図であって、それゆえありきたりでもあるということだとも思うけれども)。『罪の声』の巧妙さにベットするよりは、わたくしは神山のある種の青くささを擁護したいのである。

 さて、この『罪の声』の映画化にあたっての脚色でより際立っていたのは、同じく子ども時代に「犠牲者」になった少年2人が、まったく異なる人生を歩んだことから、「ありふれて生きていること」それ自体の罪責感のようなものがはっきり刻印されていたことだろう、と思う。この不安な下り坂の時代の空気を敏感に吸っているように思った。また、映画化して改めてメインキャラが男ばっかりなことに気付かされたが、市川実日子演じる星野源の妻の出番の短いながらの存在感(姑のわがままに付き合わされてなお「ありがとう」と口に出すことを要請されるいたたまれなさ!)は、こうしたこの作品のありかたへのある種の批評なのかもしれません。

 そして何より、小栗旬の所作に、この映画の脚本の精髄のようなものは託されている、とも思う。小栗は序盤から、ICレコーダーで関係者の発言を聴き、録音する。この録音された音源を繰り返し聴くことで閃きが生じるという仕掛けはあるが、それよりはるかに重要なのは、中盤以降、彼がICレコーダーを携行することをやめ、会話をメモするのに終始するということにある。何かを広く伝えようとする人間は、結局のところ、聴くだけではなく、絶対に書かなければならない。書くことは聴いたことをそのまま書くわけにはいかない。そのに書き手のペンが介在する以上、なんらかの変形を必ず伴うはずである。それでもなお、それが我々の使命である以上、我々は声を聴くにとどまらず、それを書くのだ。小栗の姿に託されたのは、そうした矜持でなかったかと、なんとなく思う。

 

 

罪の声 (講談社文庫)

罪の声 (講談社文庫)

 

 

 

 

amberfeb.hatenablog.com