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フィクションと事件の記録――塩田武士『罪の声』感想、あるいは『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』とグリコ森永事件

罪の声

 塩田武士『罪の声』を読んだので感想を書き留めておこうと思います。同作および『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の核心部分のネタバレが含まれますのでご留意ください。

  それは単なる過去の出来事のはずだった。あくまで歴史上の事件のはずだった。その事件に使われた「声」が、自分自身のものだったと知るまでは。

 昭和の未解決事件のひとつ、グリコ森永事件を素材にし、事件から30年余りが経過した平成の世で、新聞記者と「声」の主であるテーラーの男の二人を語り手に据え、その真相に迫っていく。作中ではグリコ森永事件とは呼称されず、ギンガ萬堂事件と言い換えられているが、巻末に記された参考文献から、あるいはあの有名な「キツネ目の男」やその他諸々の犯罪のディテールから、グリコ森永事件を題材にしていることはテクストのなかで明示的に記されている。

 グリコ森永事件を素材にしたフィクションはいくつもあるのだろうが、ある種のグリコ森永事件論として読める作品のひとつに、神山健治監督の手になる『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』がある。2030年という近未来社会を舞台に、グリコ森永事件を中心に昭和の事件のいくつかの複合体として構想されたであろう「笑い男事件」が、シリーズを貫く大きな柱だった。もちろん、科学技術の発達した近未来世界を舞台にしているわけだから、犯罪のディテールはグリコ森永事件とは大きくかけ離れているわけだが、大企業の社長の誘拐、劇場型犯罪、株価の変動、そして犯人が闇のなかに消えた未解決事件であることなど、それを想起させる要素には事欠かない。

 『攻殻機動隊SAC』において、グリコ森永事件の再演たる笑い男事件がいかなる意味づけを与えられたのかといえば、それは個々人の正義はシステムによって容易く脱臼させられてしまう、というテーゼを語っているように思われる。個人が不正を糾弾するためにとった行動が、その個人の手からあっというまに奪い去られ、システムを強固にするために奉仕させられてしまう。その奪い去られた正義の蘇生ないし継承が、『SAC』において草薙素子が最終的に担った役割だったのだし、それを通して彼女にとっての正義のありようが変容してゆく。おそらく、第1話の冒頭で 「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」と言い放った彼女は、最終話の地平においては存在しえない。上記の台詞は作品を、あるいは『SAC』の草薙素子を象徴する決まり文句の如く引用されることがしばしばあるように感じるのだが、それはまったくの誤読だろう、と思う。

 さて、それに対して『罪の声』におけるグリコ森永事件は、まったく違ったふうに読まれ、語られる。それは、犯人の目的が株価操作だったこと、元警察官と暴力団員が首謀者だったことという、ワイ/フー・ダニット型のミステリとして読むにあたっての核心とはあまり関係ない。もちろん、新聞記者が丹念に謎を追っていくセクションは本書の魅力の一端を形成してはいるのだが、『罪の声』はなによりも、グリコ森永事件が「子供を巻き込んだ犯罪であった」こと、その子供の人生を破壊した可能性をこそ、事件の核心として捉える。それは『攻殻機動隊SAC』が近未来の事件として同事件を語りなおすにあたって捨象した部分、おそらくそれを捨象しなければ笑い男は「正義」として成り立ちえなかった部分であって、その意味で、この二つの作品における事件の意味づけはまったく異なるといえるだろう。だから、『罪の声』の犯人の「正義」は極めて空疎なものとしてしか立ち現れない。

 もちろんそれはどちらが正しい、どちらが優れているという話ではなくて、それぞれのフィクションが事件の可能性をどのように掬い取ったのか、その方向性が違うというだけの話だ。現実からフィクションがなにを引き出し得るのか、ということはなんとなく頭にあって、そういう意味で本書を読んだ意味はあったのかなという気がします。はい。

 

 

柳田国男と事件の記録 (講談社選書メチエ)

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罪の声

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