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去りゆく女、留まる男――『イノセンス』感想

イノセンス スタンダード版 [DVD]

   先日久しぶりに『イノセンス』を見返しました。実写版攻殻も控えていることですしせっかくなのでこの機会に感想を書いとこうと思います。

 人形遣いをめぐる事件の末に、草薙素子が失踪してから4年。全身サイボーグの男、バトーは未だ公安9課で電脳犯罪に対処する日々を過ごしていた。そんななか、ロクスソルス社製のガイノイドハダリが暴走し使用者を殺害する事件が発生する。事件の裏に陰謀の可能性をかぎ取り捜査に乗り出す公安9課。現実と電脳世界とのあいだを行き来して犯罪を追うバトーの影に、草薙素子の影がちらつく。

 1995年公開の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(GIS)の続編は、草薙素子が去った後の公安9課、そのなかでもとりわけ草薙素子と近しい立ち位置にいたバトーを主人公として語られる。街の情景や草薙素子の実存の苦悶をめぐる語りなどを印象的に挿入しつつも、人形遣いの事件を軸にスピード感ある展開で物語を語っていた前作と比べると、衒学趣味を強く押し出した会話がそこかしこで展開され、電脳化されてなどいない私たちを容赦なく置き去りにしつつ、一方ではバセットハウンドのガブに象徴されるバトーの生活世界あるいは内面世界をフェティッシュに描き出す『イノセンス』はよりメランコリックかつアンニュイな雰囲気を湛えている。

 その衒学的な会話群もさることながら、作画・背景の質と密度は公開から10年以上経った今なおまったく古びていないと感じさせるほど圧倒的で、そうした映画としての情報量の膨大さが本作に難解な印象を与えているように思われる。圧倒的な情報量が内包されているがゆえに、どのように語るにしても何か大事なことを語り落しているのではないか、そういう感覚が避けがたくまとわりつくという気がするのだ。その感覚を喚起するのは『イノセンス』に限ったことではなく、優れた映画や小説というのは(少なくとも僕にとっては)どう言葉を尽くしても説明しがたい残余が生じる、そういう作品なのだと思うのだけれど。だから『イノセンス』について語ることをためらう気持ちは結構あって、優れた映画について何事かを語るということは自分がその優れた映画について如何に「何もわかっていないのか」が露わになるという気がするのだけど、自分がどれほど「何もわかっていない」のかを確認するために、こうして思考を物質化していく意味もあろう、と思うので、こうしてわからないなりにキーボードをたたいているというわけです。

 閑話休題。『イノセンス』を特徴づけるのは、現実/虚構を様々にパラフレーズした関係対が様々なかたちであらわれ、そしてその二項対立的な図式はしばしば混乱し溶け合っていく、そういう意味においての現実と虚構との境界があいまいになっていく、そのような世界認識であるように思われる。現実/虚構、現実/電脳世界、生物界/無生物界、人間/子ども、そして人間/人形。あるいはそこに作画/3DCGを付け加えてもいいかもしれない。前作と比べて、『イノセンス』においては様々な場面で3DCGが使用されている。街の風景やそこを飛ぶヘリ、車両、祭りの山車、そしてもちろん電脳空間もそれによって表現されるわけだが、この作画と3DCGが入り混じり、どことなく異物感を感じさせる画面設計は(3DCGを作画に寄せる形で、もっと違和感なく画面に溶け込ませることができたが、あえてそれをしなかったとどこかのインタビューで押井守監督が答えていた記憶がある)、現実と虚構が不気味に混交してゆくこの映画全体のトーンを決定している。

 登場人物の位相をその関係対のなかに見出すならば、現実の側にはバトーが、虚構の側には草薙素子が配されることになり、現実と虚構とがまじりあう物語が語られるがゆえに、その二人が出会う可能性もまた開かれる。男を現実に残してふたたび女はネットの世界に戻る結末に、現実と虚構のあいだに引かれる切断線を見出すか、あるいは守護天使として男の傍らに留まるであろう女の行く末に、その境界の揺らぎを見出すのか、そのどちらの見立てを選ぶにせよ、現実=バトー、虚構=草薙素子という位置関係は揺らがないだろう。

 現実の側に信を置くからこそ、現実と虚構との境界を自在に操り無間地獄ともいえる迷宮へと誘惑する凄腕ハッカー・キムを打ち破ることができるのだし、それこそが彼を身の危険を冒すことを承知でバセットハウンドへの偏愛と導くのだとも思う。

 押井守フィルモグラフィーをそのような目線で眺めるならば、バトーは『機動警察パトレイバー』の後藤喜一南雲しのぶの後裔ともいえるのかもしれない。虚構の街を嘲笑しそこに「現実」の極みである戦争を導き入れようとしたテロリスト、柘植行人に対して、その「虚構の街」もまたそれが生きられているという点において我々にとって「現実」なのだと信じた彼と彼女の。とりわけ後藤喜一との連続性を強調するならば、『機動警察パトレイバー the Movie』以来、現実に信を置く男が、女に置き去りにされ続ける映画を撮り続けてきた、といえるのかもしれないし、そうした現実/虚構に対する態度は、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で彼が提示した、現実/虚構の境界などおかまいなしに思うさま生きる諸星あたるのアンチテーゼともいえるのかもしれないけれど、それについて語るのはまた別の機会に譲ろう。そうした諸星あたるになれない男たちの背中にはどこかしら寂しさのようなものが滲んでいて、それが『ビューティフル・ドリーマー』以後の押井のフィルムを規定しているのかも、とも思う。

 バトーという男は現実に信を置く一方で、虚構=人形のために激怒することのできる人間でもあって、それは彼が現実の側に留まることを選ぶ、選ばざるを得ない一方で、その彼方にあるものにもまた心を囚われ続ける、そのような位置にいることを否応なしに語る。物理現実のなかのバセットハウンドへの愛と、彼岸に去った女への愛、そのいずれもが男を規定し、そのような現実と虚構とが否応なしに流れ込み、そして生そのものが形作られる、それこそが我々の人生なのだと暗示するかのように。

 

 うーんやっぱり語りきらねえという感じ。まあまた何か書く機会もあるでしょうきっと。

 

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  『STAND ALONE COMPLEX』にしろ『ARISE』=『新劇場版』にしろ、それぞれ草薙素子押井守草薙素子の後継者というよりは、バトーの精神的な後継者という感じが強いんじゃなかろうかという感触が。まあGIS草薙素子はあまりに完璧に完結してしまっているという感じもするので、そりゃそうならざるを得ないかという気もしますが。


  荒巻の台詞、「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。 肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ」の引用元はプルースト失われた時を求めて』第1篇第2部「スワンの恋」だと以前Twitterで教えていただいたのですが、該当箇所はこんな感じでした。「肝心なのは~~」以下は荒巻の持論なのか、あるいはまた別の引用元があるのか。

 「人は自分が幸福なことに気がつかない。誰でもけっして自分が思っているほど不幸ではないのだ。」*1

 

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)

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【作品情報】

‣2004年

‣監督:押井守

‣原作:士郎正宗

‣脚本:押井守

‣演出:西久保利彦、楠美直子

‣キャラクターデザイン:沖浦啓之

作画監督黄瀬和哉西尾鉄也沖浦啓之

‣音楽:川井憲次

‣アニメーション制作:Production I.G

*1:井上究一郎訳、ちくま文庫版1巻 pp.597-8