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記憶の道標として——藤本タツキ「ルックバック」感想

 藤本タツキ「ルックバック」を読んだので感想。

  『チェンソーマン』第1部完結からおよそ8か月。藤本タツキが世に問うたのは、マンガを描く少女の出会いと別れの物語だった。四コマ漫画を描いてクラスの人気を集めていた小学生の少女、藤野は、不登校の級友、京本が描いた四コマ漫画——稠密な背景のみが描画されたもの——に恐れおののき、そしてそれとくらべれば自分の絵は「ふつう」に過ぎないと周囲に看破されたことで嫉妬に狂い、努力を重ねるが、小学校卒業時にはもはや漫画を描く情熱を失っていた。しかし、卒業証書を届けた折に、実は京本が自分の漫画に心酔していたことを知って狂喜し、そして二人はともに漫画を描くようになる。藤野はキャラクターを、京本は背景を。高校卒業にあたって、雑誌連載を持ち掛けられた二人だったが、しかし京本はさらに画力を磨くため、美術大学への進学を選ぶ。一人、雑誌に連載を続ける藤野。ある日、予想だにしない事件が彼女の耳に届くことになる。

 アウシュヴィッツの後に詩を書くことは野蛮だとアドルノは書いた。では、2019年7月18日のあとにアニメをみることは?京都アニメーションのアニメについて語ることは?

 この「ルックバック」の明白な参照項は、2019年7月18日におこった京都アニメーション放火事件だろうし、そしてその翌月に日本公開されたクエンティン・タランティーノ監督による映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』だろう。あの夏、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に接した日本列島の人々のうちのいくらかは、この映画の楽しげな時間、明るい夢に、幾ばくかの、しかし決定的な居心地の悪さを感じたのではないか。現実におこった悲劇を、映画のヒーローたちが無法に塗り替えてしまう。それは夢だ。なんの罪もない夢のはずだ。それをよかったよかったと何の気なしに楽しめるはずだ。

 しかし現実に人は死ぬのだし、死んでしまったのだし、それはスタントダブルなしで抜き身の現実に生きるということなのだ。タランティーノの夢と、もう決定的に人の命が失われてしまった現実との落差。それが2019年の晩夏の日本列島で、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』をみるという経験だった。

 この「ルックバック」は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』をあからさまに引用しつつ、そのなんとも言い難い違和のようなものを自覚的に取り込み、決定的に何かを失ってしまったこの現実が誠実に語られる。これは無論のこと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』という映画そのものではないが、あのとき、あの事件のあとに『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』をみるという経験が明確に物質のかたちをとっている。

 この日付で世に問うことが、ある種の無神経との誹りを受けることは承知していただろうし、そのうえで藤本タツキという固有名に要請されるのは礼儀正しいセンシティブさでないことを引き受け、2021年7月19日に「ルックバック」は公開された。この漫画が見よ!と要請するバックとは、アシスタントをつとめたという川勝徳重らが描いたであろう背景であり、また漫画家のいくつもの背であるだろうが、やはり何より、我々から不可逆的に遠ざかってゆくものとしての過去なのだと思う。

 「確かに十年後の私は気にしないのかも知れません。でも今感じた私の気持ち、それが将来どうでもよくなっているかもなんて、今は思いたくないんです。私が生きてるのは今なんです」と少女はいった。記憶と忘却の海の中で揺蕩う我々の道標の一つとして、この漫画が描かれたことに、深く感謝する。