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批評家の目、漫画家の身体——藤本タツキ『ファイアパンチ』感想

ファイアパンチ 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 もはやあの『チェンソーマン』の、という枕詞をつけて語ったほうが通りがよいのではないか、という藤本タツキの初連載作品、『ファイアパンチ』について、考えがぼんやりまとまった気がするので、忘れないうちに書いておきます。

  我々の時代に「まったくあたらしい」フィクションを創造することは、ほとんど不可能といってよかろう。我々の目の前には、古今東西、おおよそ人の一生を費やしても接することが不可能なほどには、フィクションの群れが山をなしている。そこで「まったくあたらしい」フィクションを創造しようとする試みは、車輪の再発明というなんともむなしい徒労に終わりかねない。

 だから「影響の不安」にとりまかれた我々の時代のすぐれた作り手は、むしろ意識的に先行する作品を参照すること、その参照の目線ないし手つきのあたらしさで、「まったくあたらしく」はないが、新鮮なフィクションを創造してきた。たとえばその代表例としてクエンティン・タランティーノという作家を挙げてもよいし、またサンプリングという手法に拠って立つヒップホップというジャンルを挙げてもよいと思う。我々は影響の不安を乗り越えるため、引用という手法が自覚的に鍛えられた時代の空気を吸っている。

 非常に広く読まれているといっていい『週刊少年ジャンプ』に掲載されている漫画も、その例外ではない。『ONE PIECE』があからさまに『七人の侍』のフォーマットの反復によって成り立ち、また細部を無数のフィクションのコラージュによって成立せしめていることをひとまず例示としてあげればよかろう。

 そして藤本タツキという書き手もまた、その引用の手つきの巧みさによって少なからず読者の関心を惹いた作家であると感じる。遠い未来を舞台にした『ファイアパンチ』において、凄惨な復讐劇が進行する最中、それを「映画」として撮影しようとする人物が現れ、この物語はフィクションについてのフィクションとしての相貌を帯び、またトム・クルーズスター・ウォーズなど、我々のよく知る俳優やフィクションが言及されるとき、作品世界と我々のあいだに奇妙な紐帯が形作られるのである。

 『ファイアパンチ』の物語を中盤において駆動させる「映画監督」、トガタは主人公よりも(そして無論のこと読者よりも)この世界の法則を熟知し、そして実力で他者をなぎ倒すことのできる、ほとんど神のごとき権能をふるい、おおよそその目論見通りに事態は進行してゆく。また、遠大な野望をもつ黒幕のごとき人物は、最終目的は『スター・ウォーズ』の新作をみることだとうそぶく。

 しかし映画監督は中途で退場させられ、『スター・ウォーズ』の新作もつくられることはない。ここで映画監督に対して、その目をはるか逃れる「俳優」の漫画として『ファイアパンチ』を見立てることができる。また映画監督がそのカメラという目で物事を切り取ることがその権能であるならば、そこには一種の批評が入り込むのであり、また目によってとらえらえる事態そのものを俳優と呼ぶのなら、それを漫画家の仕事に比してもよいと思う。だから映画監督は世界を目でとらえる批評家なのであり、俳優はその線によって世界そのものをかたちづくる漫画家でもあるのだ。

 引用という営為には、不可避的に批評の目をまとってしまう。何を引用し引用しないか、あるいはどのように引用するかは、その作品をどのような目で評するか、ということといやおうなくかかわるからだ。だからクエンティン・タランティーノなどの作家がまた批評家の目をもっているのと同様、藤本タツキという作家も批評家の目を持たずにはいられなかったのだし、それは捨て去ることのできないものだろうとも思う。しかし『ファイアパンチ』はあくまで、批評家の目の限界と、それをはるかこえてゆく漫画家の身体の神話を全うしたのであって、そこに、引用の時代にあって漫画家たることの矜持が不器用に語られているのではないか、とわたくしなどは思うのであります。

 

 

 

 

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