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けものの踊り、幽霊の声——『犬王』感想

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 湯浅政明監督『犬王』をみました。湯浅政明という作家の、現時点での総決算ともいえる作品だと思います。一人でも多く、劇場に足を運んでほしい。以下、感想。

 日本列島、いまからおよそ600年前、南北朝の時代。壇ノ浦に住む少年、友魚は、謎の男たちに依頼され、父とともに、海に沈んだ三種の神器のひとつ、草薙の剣をサルベージしようと試みる。しかし、剣がさやから抜かれた刹那に発した閃光―—それは敗れて海へと沈んだ平家の怨念かもしれない——によって、父は死に、自身も視力を失ってしまう。父の無念の晴らすため旅に出た少年は、琵琶法師の男と出会って自身も芸を身に着け、やがて京都に辿りつく。そこで出会ったのは、異形の少年。片腕が異様に長く、もう片腕はあるはずのところに見当たらない。瓢箪で隠された素顔をみた民草は、震えあがって逃げ出してしまう。盲目であるがゆえにその異形をおそれなかった友魚は、少年と親交を結び、やがてまったく新しいムーブメントを巻き起こす。異形の少年の名は、犬王。歴史の彼方に消えていった綺羅星の姿を、わたしたちは目の当たりにする。

 『四畳半神話大系』、『夜明け告げるルーのうた』等々、鮮烈な作品を送り出してきた湯浅政明の最新作は、古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』を、大胆不敵なロック・ミュージカルとした劇場アニメ。異形の存在たる犬王が躍動するさまは、湯浅の初監督作品である『ケモノヅメ』のサルや、あるいは『夜明け告げるルーのうた』のルーなどなど、人ならざるものたちがいきいきと動いていた過去のフィルモグラフィの記憶を喚起する。

 ドラマのなかで音楽に重要な価値が託されるが、これも『夜明け告げるルーのうた』は無論のこと、『きみと、波にのれたら』など近年の作品から連続している主題だろう。中盤、橋の上ではじまるゲリラライブのシーンの手触りは、『夜は短し歩けよ乙女』のミュージカルシーンと似ているような気がするが、この『犬王』ではそこからさらに大きく飛躍し、橋の上から河原、清水の舞台、そして権力の中枢、おそらく鹿苑寺かと思われる場所にまで舞台を次々と変え、その都度その場所にあわせて歌唱と舞踊とがスケールアップしていく。これに実質を与えているのは、言うまでもなく、主演を務めた二人、バンド女王蜂のフロントマンであるアヴちゃんと森山未來。とりわけアヴちゃんの変幻自在ぶりは白眉。あるときは道化のように、あるときは艶やかに、目まぐるしく声を調子を変えて犬王というトリックスターに実質を与えてみせたその仕事ぶりは掛け値無しに素晴らしい。これまでも湯浅政明は声優を本業としない演者を主要キャラクターにしばしば据えてきたが、ここまで強烈な化学反応をよびおこした今回の人選は見事という他ない。

 南北朝期に突如鳴り響く現代楽器と琵琶とのアンサンブルによって彩られる、さながらロック・ミュージカルのごときシーンはこの映画の最大の見せ場であることに疑いはなく、曲調も演舞の趣向も変化させつつ、しかしリズムが持続していく一連のシークエンスは、湯浅政明がこれまで追求してきた、音とアニメとがシンクロして生み出される快が極めて強烈に感じられる。その意味でまさしく、この『犬王』は湯浅政明という作家にとって現時点での集大成といっていいだろうと思う。

 そして、そうした演出の水準とともに、モチーフの点でもこれまでいくつかの作品で反復してきたものを継承している。それは端的にいえば「幽霊」と「鎮魂」の問題である。『夜明け告げるルーのうた』は海とかかわる死が物語のなかで重要な意味をもっていたし、『きみと、波にのれたら』はよりストレートに死別した恋人をめぐる幽霊譚であった。この『犬王』においてもまた、「幽霊」によってドラマが駆動する。犬王と友魚は、それぞれに「幽霊」の力によって人生を大きく変えられている。彼らは過去の亡霊、歴史の敗者たちの無念の声を聴き、それを音楽と舞踊に昇華させることで、犬王にかけられた呪いが解かれていく。

 手塚治虫どろろ』を想起させる展開ではあるが、しかし「幽霊」と「呪い」の主題系は、ここでは歴史の磁場のなかでより複雑な相貌をまとうようになっていく。こうしたオルタナティブの歴史をめぐる想像力は、古川日出男という作家の武器とするものでもある。ナポレオン侵攻に揺れるエジプトを舞台とした『アラビアの夜の種族』、誰も知らない東北の歴史をめぐる『聖家族』等々。この古川の作家性が湯浅の想像力と合流し、『犬王』の時空を形作る。それは奇しくも、古川日出男による翻訳を原作とし同じサイエンスSARUというスタジオから放たれた傑作、『平家物語』のそれと共振してわたしたちと過去との関係性をあらためて創造する契機が生まれているのだが、それについてはひとまず措こう。

 平家の物語の異聞として伝えられ、そして犬王と友魚という時のスーパースターたちによって昇華された物語。しかしそれは、歴史を自身の正統性の担保とするがゆえに、たったひとつの正統な歴史こそを必要とする権力者にとっては、排除し消し去るべきものでもある。芸能を庇護し贔屓の芸人への愛を隠そうともしない足利義満は、その裏で自身の正統性を脅かすものをなんの躊躇もなく排除する冷血を併せ持つ。幽霊の鎮魂によって回復された身体の物語は、そうした幽霊の声の存在を認めない権力者によって反転する。呪いが解かれた犬王の身体と対比されるがごとく、友魚の右手、左手はそれぞれ切り落とされ、そして命も奪われる。こうしてまた新たな「幽霊」の物語が始まる。語るべきことを語れずに消え去った、歴史のなかの凡庸な幽霊の物語として。そう、この作品世界の幽霊は鎮魂などなくとも時間の流れのなかで避け難く消え去る運命を課されているのである。

 この幽霊をめぐるドラマは、先に触れた山田尚子監督による『平家物語』との対比すると、そのシニカルさがより鮮明になるだろう。『平家物語』は、端的にいえば「幽霊」への「鎮魂」は「過ぎ去った過去を語り継ぐこと」でなされるのだとし、語り継いでいくこと、その価値を擁護した。しかし『犬王』を経由したわたしたちはこう問わずにはいられない。語り継がれる「過去」とは、極めて特権的な事柄に過ぎないのではないか。それは時の権力者にとって無害なものであったがゆえに、たまたま語り継ぐことが許されたのではないか。それが『平家物語』の価値を減ずるとはまったく思わない。しかし『犬王』は『平家物語』の裏側、語るべき何事かを語っている。それが同じスタジオでほとんど同時期に世に出たことは、やはり幸福というべきなのだろう。

 何も残せなかった幽霊の怨嗟の響き——それはわたしたちが決して聞き取れないものである——がこだましていること、そのことこそが問われている。600年前の狂騒のあと、長い長い沈黙を経て、かすかに響く幽霊の声。それはたしかに、劇場にあったのだと思う。

 

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