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『ペルソナ4』におけるメガネの位相―メガネ・認識・社会科学

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 昨日今日とで内田義彦『読書と社会科学』を読んでいました。1985年に出版された本にもかかわらず、内田氏の述べる人間の認識に関する知見は、なんとういうか、日ごろ自分の考えていたことをすっきり言葉にしてくれていた気がして、すごく印象的だったんですね。

 その認識の問題は、『ペルソナ4』と関わるんじゃねーかとぼんやり考えていて。いや、なんで『ペルソナ4』が出てくんだよ、という突っ込みは当然だと思うんですが。いやしかし、『ペルソナ4』が描く、真実を探し求める、というモチーフは、認識の問題ともかなり関連があるんじゃないかと。そんなわけで、僕の考えるところを『ペルソナ4』に絡めて書いておきたいなと思います*1

ペルソナ4』におけるメガネの意義

 まず、認識の問題と『ペルソナ4』がどう関連してくるのか、僕の考えるところを示しておこう。『ペルソナ4』の主人公たちの目的は街を混乱させる事件の犯人を突き止めること、すなわち真実を明らかにすることである。そのために重要な道具となってくるのが、「メガネ」である。

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 主人公たちはこのメガネを通して世界を認識することで、濃霧に覆われた世界を見通し、真実に近づくことができる。なんらかのレンズを通してしか、ものを見ることも戦うこともできない。

 メガネを通して見る世界は、フレームが邪魔してどうしても裸眼やコンタクトレンズと比べて狭くなる*2。また、レンズを通して見る以上、世界はそのレンズの度数なりなんなりの制約を少なからず受けることになる。

 しかしその狭い、レンズによって多少なりともゆがめられた視界においてなお、いや、むしろ狭くて歪んでいるからこそ、逆説的に真実を見通すことができる。それは、メガネという形で自らの偏向が可視化されているからに他ならない。つまりメガネによって、自らの認識の不可避的な偏りを、主人公たちは認識したのである。つまり、自ら認識の在りようを意識化することで世界はクリアに見通せるのだ。ストーリー上で、自己と対話し、自分を客観化することでペルソナという戦う力を獲得したことと、メガネによる認識の客観化は、多少なりとも重なる部分もある気がする。

 「メガネ」というガジェットと「真実を求める」という物語は、これ以上なくマッチした組み合わせだといえよう。その連関の意味するところは、現実の社会にいかなる示唆を与えるのだろうか。

 人間の認識とは?-内田義彦『読書と社会科学』から考える

読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

 

  さて、それを考えるために唐突だが内田氏の本の話題に移ろう。内田義彦『読書と社会科学』はどんな本かざっくり説明すると、経済学者による読書論、社会科学論の本、ということになります。それらのトピックは相互連関的に扱われているので、単に読書論、社会科学論にとどまらず、かなり深い読みが可能であるテキストだと、僕個人は思っています。

 それをこの記事では、社会の認識に関するところだけ引用しますが、それ以上の射程、含蓄がある本なんだよ、ということだけはエクスキューズさせてください。

 

 本書の中で、社会科学の本を読むことの意味は、各人の中に概念装置という認識の手段を作り上げることである、と内田氏は主張する。概念装置というのは、様々な専門用語の組み合わせである、という。概念装置を通してものを見ることにどんな意味があるのか。それは以下で引用する通りである。

 社会科学の重要な学説―さしあたり、それを通じてわれわれは社会科学を学んでいるわけですが―は、何か大きな、現実的関心があって生まれました。といっても、まず明確な問題があって学問がそこからはじまるというわけではありません。現実的な問題は、学問的な解決を必要とすべき問題として

あらかじめ明確に意識されているというかたちでは存在していないのです。肉眼では見えない、掘り起こしてはじめて問題が問題として出てくる。

 内田義彦『読書と社会科学』、pp146-147.(強調は引用者による) 

 この概念装置を通してこそ、問題が問題として見えてくる。この概念装置の役割は、まさしく『ペルソナ4』におけるメガネと等価である。このこと、ゲームの中だけでなく、現実社会においても「メガネ」は重要なガジェットであることがおわかりいただけただろう!

 

メガネを捨てる子供たちー『ペルソナ4』の後退?あるいは昇華

 というわけで、『ペルソナ4』がメガネというガジェットにおいて示唆したところの意義を、内田氏の著作で確認した。しかしその意義に反して、『ペルソナ4』の物語は全く逆の方向に帰結する(ように思える)。

 真の敵と相対した主人公は、あろうことかメガネを投げ捨て、裸眼で最後の一撃をお見舞いするのだ!なんたることか。あれほどメガネというガジェットを通して語ってきたことの意味は、一体なんだったんだろうか。

 ラストの主人公のふるまいは、メガネという道具なしでも、真実に到達できる、いやむしろメガネがあるから、真実にはいつまでもたどり着けないのだ、と雄弁に語っているようにも思える。メガネによって、不可避的な認識の偏りを意識化したのだ、という僕の読みは、あっけなく打ち砕かれたかに見える。

 というわけで、僕にはこのシーンが奥歯に挟まった小骨のように思えてならないのだが、皆さんはどう思っているのだろうか。

 

 完全に話題がそれるが、同じくメガネを重要なガジェットとして取り上げたアニメとして『電脳コイル』がある。同作品で主人公たちがメガネとの向き合い方としてとった道は、全くの正反対のように思える。(そもそも「敵と戦う道具」と「インフラ」だから当然といえば当然だが…。) そんなことも、いつか記事として書いときたいですね。

 

 

 

ペルソナ4 ザ・ゴールデン

ペルソナ4 ザ・ゴールデン

 

 

電脳コイル Blu-ray Disc Box

電脳コイル Blu-ray Disc Box

 

 

*1:以下、僕が『ペルソナ4』に言及する際には、PS2版を念頭に置いています。アニメは未見です。

*2:多くのメガネはそういう作りになってますよね