宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

  何を言っても嘘になると思った。そんなことを書き連ねるより、ただ沈黙を保ち、何もなかったかのように生きていたほうが賢いのだろうと思った。そのほうがよほど誠実だろうと思った。もっともらしい嘘よりただ誠実な沈黙にゆだねたほうがよいに決まっていると思った。何か別のことを考えるべきだと思った。

 でもそれはできなかった。できるわけがなかった。一時それを忘れることはできても、またすぐそれは脳裏に浮かんでくる。忘れるふりをすることなどできず、ただやり場のない思いだけが外に出ることもなくぼんやりと胸中に浮かんでは消えていくにまかせ、気付けば短くない時間が過ぎていた。何を言ったら誠実なのかわからなかったし、何をやったら誠実なのかもわからなかった。ただ、何かを言おうとしたとき、その言葉が自分自身にとってもいたく不誠実なものであるようにも思えて、何かをつぶやくこともできなかった。

 祈ろうと誰かが呼び掛けたらしい。祈ることには意味がある。間違いなく。それはある種の喪の作業だ。その作業をへて、我々はそれが決定的に失われてしまったという事実に一旦けりをつけ、それが決定的に失われてしまったあとの日常に還ってゆかねばならない。その意味で、祈りは他ならない、生者のためのものだ。

 それが悪いのではない。悪いわけがない。しかし喪の作業が意味を持つのは、同時に、それがあくまで死者のためのものである、と信じられているからでもある、と思う。その作業があくまでも死者のためのものであるという形式をとっているからこそ、喪の作業は喪の作業として、生者のために機能してくれる。インターネットの言説空間は、この喪の作業の建前を粉微塵に吹き飛ばし、あらゆる言明が発話者ないし生者のためのものとして機能するようにしてしまった気がする。だから祈らなかった。インターネットで祈りたくなどなかった。そして心のうちで祈る仕方など知らないことにも気付いた。いままで、祈りをインターネットの言説空間にたやすく垂れ流していたことに気づいた。いままでそれはある程度まじめな、何かをそこに託した祈りではあった。でもそれは、ほんとうに切実に、祈りという所作が必要になったときに、自らのなにかを賭けられる祈りではなかったのだ。

 あまりに多くのことを教えられてきた。2006年に放映された『涼宮ハルヒの憂鬱』は、10年以上経った今でも、僕の心に鮮烈な印象を残している。大時代的な言い方が許されるならば、このいまのフィクションにかかわる空間は、『涼宮ハルヒの憂鬱』が切り開いた地平、その延長線上にあると言い切ってもいいとすら思う。これは僕らの世代がぼんやりと共有する感覚なのだと、そう信じている。非日常に焦がれる心情を肯定しつつ、日常の代えがたいおもしろさもまた伝える、非日常と日常の曖昧な縁。それこそ京都アニメーションが切り開いてきた豊かな場所、私たちが何かを託すに足るかもしれないと思える居場所だったのだ。

 そう信じて、素人のお遊びに過ぎないのだけれど、そうした居場所の手触りを言葉に移し替えたくて、今まで文章を書き連ねてきた。『涼宮ハルヒの憂鬱』、『けいおん!』『氷菓』、『響け!ユーフォニアム』、『リズと青い鳥』。それらの作品に惹かれた多くの人間のうちの一人として、それらの作品を通していま・ここをどのように納得しているのか、その納得の仕方を書き残したいと思った。それらをなんとか本のかたちにして、他者に手渡すことは、いいようのなく楽しいことだった。嬉しいことだった。それらはぼくの人生の少なくない部分を占めていて、だから、こういっても少しも大げさではない。僕の人生の一部は京都アニメーションによってつくられたのだと。

 今後、そんな能天気な言葉を書き記すことは、この出来事抜きで何かを語るような所作は、決定的な不誠実さとは言わないまでも、何か大事なことをあえて見ないで済ませているような、弛緩した居心地の悪さを帯びるのではないかと気がする。ある美術批評家が、ファンコミュニティが何かを語っていかなければならないんじゃないかとのんきに呟いていた。馬鹿野郎だ。大馬鹿野郎だ。何かを語らなければならない、その通りだ。でもそれは今じゃないだろう、と思う。いま能天気につぶやくことではさらさらないだろうと強く思う。

 語ることそれ自体が、何か死者のためになるなどという思い上がりは捨てなければならない。死者のためにできることなど、ほんとうにはないのだと思う。でも、ぼくは何かを書こうと思っている。それが死者のためにはならないとしても。何かが決定的に失われてしまっても、それでもここには意味があるはずだと信じるために。何かが決定的に変わる、そんなことなど信じられなかった今までの数多の仕事に、深い感謝を。そして再び、まだ知らぬ未来において、何かが生まれることを、強く願っています。