『天気の子』をみました。新海誠という作家は、これからもますます果敢に自分自身を更新していくのだろうな、と感じさせる傑作だったと思います。以下、感想。ネタバレが含まれます。
雨の降りしきる東京、新宿。病室から外を眺める少女。不意に差し込む光。その光に誘われ、少女は不可思議な力を手にする。
孤島を旅立ち、東京へ向かう少年。船中で偶然出会ったオカルトライターに拾われた少年は、おしつけられた雑用を処理する中で、「晴れ女」の噂を耳にする。「100パーセントの晴れ女」である少女と少年は出会う。そして彼女は、あるいは彼は、世界を変えてしまう。他ならない彼女のために。
新海誠の最新作は、雨の降り続ける東京、おもに新宿界隈を舞台に、意志することで天候を操作し、雨の世界に陽ざしをもたらす少女をめぐる物語が語られる。新海誠のフィルモグラフィから雨の記憶を探っていけば、当然、『言の葉の庭』にたどりつく。『言の葉の庭』では、雨とは何より、通常の日常とは異なる、「ふつうでない」時間・空間を生み出すものだった。雨に導かれた少年が日常からほんの少し逸脱したことで物語は始まり、そして雨の降る「ふつうでない」時間のなかで、彼と彼女は距離を近づけていく。
『天気の子』においても、ひと月以上降り続いているとされる雨は「異常気象」であるとたびたび形容され、この作品世界は「ふつうでない」雰囲気—―しかしそれは我々が経験するかもしれない範囲での「ふつうでない」雰囲気ではあるのだが――をまとっているのだということを我々に教える。だから、我々の安易な想像力は、この「ふつうでなさ」が次第にほどけてゆき、我々の「ふつう」の日常が回復される、そうしたストーリーラインを容易に想起することができる。
ある種の異常さや逸脱が克服され、日常があるべき姿に還ってゆく。それはフィクションのなかでありふれて語られてきたものであるし、そうしたモチーフは、新海の過去のフィルモグラフィのなかにも見出されることはいうまでもない。『言の葉の庭』は「ふつう」の人生で挫折し立ち止まる女性が再び歩き始める物語だったのだし、『星を追う子ども』はある種の喪失を人々が受け入れる、そうした喪の作業が全体を通底するモチーフであったが、そうした喪の作業は我々がいつもの日常に帰還するためにこそなされるものである。
しかし、『天気の子』はまったくそういう映画ではない。ふつうの日常か、それとも狂ったままの世界か、という二者択一。その「ふつう」さを取り戻すために、かけがえのない人が犠牲になるのならば、そのような「ふつうさ」などいらない、彼女のいない「ふつう」な世界よりも、狂った世界を彼女と歩きたい、そのために少年はがむしゃらに走り、叫ぶのだ。
これは、『天気の子』のパンフレットで新海自身が語っているように、「正しくない」のかもしれないし、恐るべき開き直りであるかもしれない。しかし、それはそれで尊いもの、あってよいものなのだということを、この映画は教える。そのためにこそ、この映画は異常気象と晴れ女という、フィクショナルなモチーフが必要だったのだ。『君の名は。』において、これまで彼と彼女の隔たりを生み出した時間的空間的な距離を突破するために、人格/身体の入れ替わりというフィクションが必要だったように。
このフィクショナルなものを扱う手つきについて、この『天気の子』は『君の名は。』とはやや異なるアプローチをしているのではないかという気がする。『君の名は。』のおいては基本的にキャラクターが拠って立つ現実は我々が生きる現実と地続きのそれだった。そのなかに、過去の記憶と紐づいた異界への扉が開いていたとしても、それは彼女・彼には夢のようなものとして処理される。
一方、『天気の子』は空中の雲海の中に、異界のようなものが確かな実在としてあり、そこからもれでる不可思議な魚が、現実の東京に侵入し、人々の目にさらされる。この異界は、新海もかつて熱心に視聴したという宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』の記憶を想起させもし、また実在する異界は、新海自身も『星を追う子ども』において主要な舞台として設定したものだった。『星を追う子ども』で舞台となった地底世界アガルタは、あくまで彼岸のようなものとして、この現実とは決定的な線が引かれていた。一方、『天気の子』の異界は現実の東京と不可思議な祠を通して、あるいは天候を通して曖昧につながっていて、そうして、東京はその異界によって塗り替えられ、我々の見知った都市が見事に相貌を変え、立ち現れる。
新海はそのフィルモグラフィのなかで、東京の街並みを、現実をあたらさまな参照項としつつ、しかしその現実よりもはるかに美しく、スクリーンに活写してきた。そして、なおかつ、とりわけ『秒速5センチメートル』や『君の名は。』において、東京とは「東京ではないどこか」と対置される、極めて強力な磁力をもつ場所という位置を与えられてもきた。「東京でない何処か」が消え去って忘れられても、東京には変わらぬ日々の喧騒があった。
この『天気の子』において、そうした東京、現実においても強烈無比な磁場を持つ大都市のなかにフィクションを引き込み、塗り替え、これまで新海が描いてきた現実を基底とする美しい東京ではなく、まったく架空の東京を画面に映し出してみせた。これは新海誠という作家は、今後も自分自身を絶えず更新してゆくのだという宣言でもあるのだろう。
こうして新しくなった世界—―それは我々が安住する「ふつう」からはかけ離れた世界でもある――で、少年が少女に、ある素朴な言葉を投げかけ、物語は終わる。それは、『秒速5センチメートル』で彼女が彼に投げかけ、そして自分自身に言い聞かせたのだろう言葉であり、あるいは『言の葉の庭』で思い悩む教師が、自身の状態を確かめるかのようにつぶやいた言葉でもある。それらの言の葉のなかには、茫漠とする未来への祈りや、あるいはふつうでなくなってゆく自分自身への不安が込められていた。しかし『天気の子』のそれは、そうした不安をなんとか吹っ切り、もっと無責任で明るく、確信に満ちたニュアンスが込められていたと思う。我々は、さしあたって、この新しいフィクションの世界を目撃したことを祝福してもよいのだろうと思う。まったくそうでないときもある。そのような言葉をつぶやくこと自体が非倫理的で、暴力的ですらあることもあるだろう、それでも時にはその言葉に何かを託してもよいだろう。我々は大丈夫なのだという、素朴な祈りのなかに。
新海誠については、個人誌で書きました。
上映前にシン・エヴァンゲリオンの予告が流れましたが、『天気の子』ってエヴァ破およびQへのアンサーなのではという気がしていて、「世界がどうなってもいい」と彼女に手を伸ばしたシンジ君は、はからずもこの『天気の子』で救済されたのではないかな、と思うのです。
【作品情報】
‣2019年/日本
‣監督:新海誠
‣原作:新海誠
‣脚本:新海誠
‣作画監督:田村篤
‣音楽:RADWIMPS
‣アニメーション制作:コミックス・ウェーブ・フィルム
‣出演