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吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史』メモ

 都市のドラマトゥルギー (河出文庫)

  吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史』を久方ぶりに再読しましたので、メモを残しておこうと思います。

  本書は、日本近代における「盛り場」に着目し、そのなかで働く機制とその変遷をたどることで、我々がいかなる歴史性のなかに生きているのか、それを浮き彫りにしようとする試みだといえる。それまでなされてきたいわゆる都市論の議論に対する本書の新規性、特筆すべき視角は、盛り場を人びとによって「上演」される「出来事」として捉えた点にあるだろう。

盛り場における諸々の事象を、何らかの外的なシステムの論理に還元してしまうのではなく、むしろ、盛り場に集う人びとが、その集っている盛り場との相互作用のなかで紡ぎ出していく固有の磁場(ないし社会的コード)に基づくものして把握していかなければならない。つまり、盛り場を<出来事>として捉え、そうした出来事自体を秩序づけている意味論的な機制を、出来事の担い手となっている人びとの相互媒介的な身体性において問うていかなければならないのである。*1

 その場を規定する行政あるいは企業の「台本」と、実際に人びとによってなされる「演技」との相互作用、その循環的な関係を捉える視角として吉見が提起するのが<上演論的パースペクティヴ>である。それが本書の基底をなす。

 実際に検討される盛り場は1910~30年代における「浅草」・「銀座」、1970年代における「新宿」・「渋谷」なのだが、日本近代における盛り場の起源として提示されるのが、博覧会である。博覧会とはすなわち、 「近代的なるものに向けて人びとのまなざしを組織していくメディア」*2であり、それは人びとを近代的な主体として鍛える契機として構想されてもいた。ここにおいて、「近代=外国」という等式がなりたつわけだが、しかし博覧会においてはそうした近代的なるものが前近代的なるものを圧倒していたわけでは必ずしもなかった。博覧会の場はそうした近代の装置であると同時に、前近代から連続する「見世物」・「御開帳」と等価なものとして人々に感受されもする。そうした「近代=外国」と「前近代=異界」とが混交する場として、博覧会は存在した、というのが著者の見立て。

 そうした近代的なるものと前近代的なるものとの葛藤、という図式を前提として、1910~30年代における、「浅草」から「銀座」への、あるいは1970年代における「新宿」から「渋谷」への最も求心力をもつ盛り場の重心の移動が提示される。「浅草」・「銀座」と「新宿」・「渋谷」の関係性はパラレルであり、それぞれが含み持つ属性は以下のように整理できるだろう。

  • 浅草・新宿=人びとは<触れる/群れる>=幻想としての〈家郷〉=「地方から大都市へ出郷者が押し出されて集積していく局面」
  • 銀座・渋谷=人びとは<眺める/演じる>=先送りされる〈未来〉=「都市に住みついた人々が、諸々の文化装置やメディアとの相互作用を通じて都会人のアイデンティティを身につけていく局面」

 それぞれの盛り場の「出来事」と属性を、農村と都市のあいだの人々の移動と結びつくものとして、結章では総括される。都市のドラマトゥルギーとはその意味で、農村から都市に移動するその運動によって駆動するものだと示唆している。そうした日本近代のダイナミズムを、夏目漱石の作品の読解から摘出したのが若林幹夫『漱石のリアル』で、僕はその視座に則っていろいろ書き散らかしてきたのだけれど、今回『都市のドラマトゥルギー』を再読して、都市と農村との緊張関係ってのは改めて(僕にとってというだけでなく)我々がまさに生きる日本近代を考えるうえで超重要じゃん、ってなったわけです。

 本書のあとがきの日付に運命のいたずらみたいなものを感じたので勢いのまま書いたんですが、いやなんというか要領を得ない文章が生産されてしまった。まあこういうこともあるでしょう。気が向いたら加筆訂正します。

 

 

都市のドラマトゥルギー (河出文庫)

都市のドラマトゥルギー (河出文庫)

 

 

 

漱石のリアル―測量としての文学

漱石のリアル―測量としての文学

 

 

 

*1:p.114

*2:p.139