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不完全な神とその可能性――野崎まど『2』感想

2 (メディアワークス文庫)

 野崎まど作品を刊行順にぐいぐい読んでいくぞキャンペーンが順調に進行しておりまして、本日ついに『2』に至りました。いや刊行順に読んだのマジで正解でした。以下感想。

  俳優志望の地味な青年、数多一人。超有名劇団のオーディションを通過し、その一員として認められたかに思えたのも、つかの間、その劇団は解散に追い込まれてしまう。時季外れのオーディションに訪れた、ある一人の女性の完璧な演技によって。唯一彼女の眼鏡にかなった数多は告げられる。「映画に出ませんか?」。彼女の名は、最原最早といった。

 彼女の登場により、私たちは想起する。同じ著者の手になる『[映] アムリタ』を。『[映] アムリタ』から『舞面真面とお面の女』、『死なない生徒殺人事件 〜識別組子とさまよえる不死〜』、『小説家のつくり方』、『パーフェクトフレンド』と、野崎まどが手掛けた小説群の登場人物たちが一つの物語世界のなかに結集し、そして天才は再び映画=世界を創造しようと試みる。そして彼女の前に立ちはだかるは、自身の曽祖父の遺した謎を解き明かした名探偵、舞面真面。その舞台の端々に姿を見せる、世の理を超越した異形のものたち。この『2』を読了したいまとなっては、それらの作品群はあくまで壮大な前振りでしかなかったようにも思えてくる。

 『[映] アムリタ』で、最原最早は世界=作品を創造したが、それはある一人の人間の造り替えが目的だった。彼女はそれを果たした。そして彼女は取り掛かる。世界=創作そのものを塗り替える偉業に。『[映] アムリタ』以来、野崎まどの作品群にはある種のフィクション論として読むことが可能な道具立てが用いられていたが、そのフィクション論は『2』においては、利己的遺伝子論などもろもろの科学的あるいはSF的なロジックと絡み合い、フィクション論=人間論というような装いを纏っているように思われる。

 『[映] アムリタ』は、最原最早はいっけん完全に世界をコントロールしたようにもみえるが、世界そのものは彼女という天才=神を裏切っている、という天才=神の全能性、そしてまさにその全能であるがゆえに内包する不完全性が暴かれる物語でもあった。それについては以前以下の記事で書いた。

 その全能性と不完全性こそ、世界=フィクションを作り出す神=創作者の背負う宿命である、というのが『[映] アムリタ』におけるフィクション観だったと総括できるだろう。最原最早は天才の具現であると同時にあらゆる作り手の象徴でもある。だが『2』において天才は、『[映] アムリタ』を反復し変奏し、その不完全性までをも公算にいれたうえで、世界=映画を創り上げる新たな天才=創作者の像を提起する。

 それではその不完全さすら織り込んで世界をつくるために、天才はなにを必要としたのか、それを私たちは知っている。彼女の「作品」にして、ある意味では彼女の不完全さを象徴する失敗作でもある、ある俳優。彼の完璧な演技が、演技とすら意識されないほどに研ぎ澄まされた語りと行動こそが、彼女が自身の世界=作品をアップデートするために必要だった。自身の「作品」を梃に物語をドライブさせ、そしてそれこそが究極のカギとなるこの『2』という物語に、あるいは最原の姿に、野崎まど自身を重ねるというあまりにもあからさまで陳腐な見立ては可能ではあるだろうが、そんな雑な作家論などどうでもいい。

 「1」に対する「2」、『[映] アムリタ』および他作品を「1」とした場合の「2」等々、様々な意味と文脈を付与することが可能な『2』というタイトルが示すのは、まさに世界=作品が成立し途方もない場所に到達するために必要な、その最小の数なのだろう。『2』とは、不完全な神の、その可能性を極限まで拡張する徴なのだ。

 

はい、というわけでめちゃくちゃおもしろかったです。 

 

 

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