古田徹也『言葉の魂の哲学』をこのところ読んでいて、これは今年読んだ本のなかでも最も教えられるところの多かった本かも、と思いましたので、メモでも残しておきます。
ある言葉が切実に、心を動かすということがある。あるいは、ある言葉がまったく空疎に感じられる、ということもある。この両者の違いはどう生じてくるのか、ということをとっかかりとして、我々と言葉とが取り結ぶ関係について考察したのが本書。中島敦らの「言語不信」(それは「文字禍」などに端的にあらわれている)を入り口に、そうした言語不信を越え、言語批判の思想を展開したウィトゲンシュタイン、カール・クラウスのテクストへといたる。
とくにクラウスの言語論は、本書をある種の倫理学の書として読むならば、その核心におかれるように思う。「当該の言葉で表現されなければならなかったものが、その言葉の創造において初めて浮き彫りになるというパラドキシカルな構造」を、「言語の持つ「創造的必然性」」なのだとする。
ぴったりの言葉を探そうとすること自体はもちろん当人の意志の産物だが、結果として出てくる言葉は、言うなれば「向こう」からやってくる。だからこそ、しっくりくる言葉の到来には、幾ばくかの驚きが伴われるのである。そして、言葉のそうした自律性こそ、言葉をめぐる創造性の源泉であり、同時に、この言葉でなければならなかったという必然性の源泉でもある、そうクラウスは考えるのである。*1
この、言葉というものがそれなしでは私たちの生は成り立たないようなものであるにもかかわらず、完全には私たちの自由にはならない、不如意なものである、という認識。言葉を前に、私たちは迷わなければならない、とクラウス=筆者はいう。
クラウスはこう言いたかったのだろう。世界が不確かさに覆われつつあるように映り、不安や孤独に襲われたとしても、我々は言語不信に陥って誰か(マス・メディア、カリスマ、独裁者)の言葉に身を任せるのではなく、言語の可能性をこそ信頼し、言葉の豊穣さによって触発される「迷い」を「贈り物」として祝福するべきではないのか、と。*2
自分の言葉として他者の言葉をそのまま反復することは、まさにソーシャル・メディア・サービスの恩恵を受ける現在の方が遥かに簡単である。実際、いま急速に拡大しているのは、他者の言葉に対する何の留保もない相乗りと反復に過ぎないのではないか。*3
「リツイート」や「シェア」等の反射的な引用・拡散や、「いいね」等の間髪入れない肯定的反応の累積がもたらすのは、それによって単に重量を増した言葉が他の言葉を押しのけるという力学であり、かつてない速度と規模をもつデマや扇動の生産システムではないのか。あるいは、そうした引用・拡散や肯定的反応を誘うような言葉を発するという、絶え間ない常套句の生産システムではないのか。……そうして、我々が向かおうとしているのは、重量と勢いと熱量のある声へのーーその声を代表する誰かへのーー「迷い」なき同調と一体化の空間なのではないか。*4
引用ばっかりになってしまったけど、このあまりに軽率に言葉を弄べるいま・ここにいる私たちにとって、これはもっともっと読まれなければならない本だと思うのです。ありふれたことどもの前に立ち止まること、それこそが倫理のよって立つ姿勢だと思うので。
話は変わりますが、ぼくが今年いまのところ最も好きな映画である『スリー・ビルボード』は、ひとことでいうなら、「迷うことを知る」映画だと思うのです。それまでおそらく何の迷いもなく生きてきた二人が、最後の最後で「道々決めればいい」という迷いの場所に達する。それは(その会話がまさに動き出す車の上でなされることに象徴されるように)あくまでふっと過ぎ行くだけの場所にすぎないとしても、惑う二人が我々に投げかける、そして私たちはほんとうに迷うということを知っているのだろうか、という感覚は、本当のものだとおもうので。
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