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タクシードライバーの義務と責務——『オッドタクシー』感想

ODDTAXI

 『オッドタクシー』をみました。たいへんおもしろかったです。以下感想。

  現代、東京。そこでは数々の動物たちが、人間のように社会生活を営んでいるように思える。セイウチのような見た目の中年、小戸川は不愛想なタクシー運転手。なにやらいわくありげな動物たちと因縁がある様子のこの男が、どうやら練馬区の女子高生が失踪した事件と結びついているらしい。タクシーのドライブレコーダーに残っているらしい決定的な記録、それを狙うちんぴらども。動物たちの陰謀と欲望が、タクシーを中継点に交錯する。

 イラストレーターの木下麦のテレビアニメ初監督作品。脚本に『セトウツミ』で知られる漫画家、此元和津也を迎え、擬人化・デフォルメされた動物たちが、陰謀をめぐらし、あるいは巻き込まれ、それらと関係したりしなかったりして生きていく群像劇が語られる。様々なキャラクターが交錯する地点として、小戸川のタクシーという空間を設定したのはお見事。動物という記号によって、数多く登場するキャラクターの判別は容易で、タクシーというギミックは偶然の出会いをそれほど無理なく演出させる効果をあげている。

 SNSで承認を得るために躍起になる若者、ソーシャルゲームにはまり込み身を持ち崩す人間、アイドルの追っかけ等々、キャラクターに付与された属性はいかにも現代的で、それらをある種の露悪性をもって扱う手つきは真鍋昌平闇金ウシジマくん』を想起させる。『闇金ウシジマくん』的な仕掛けと語りは、ともすればある種の軽薄さ・陳腐さを作品にまとわせてしまう気がするのだが、それをキャラクターのキュートなルックで中和することで回避している、という気がする。それが、露悪的なモチーフの選択にもかかわらず、本作をガイ・リッチー監督の『スナッチ』風味の軽快な群像劇にしている所以だろう。

 クエンティン・タランティーノからガイ・リッチーを経由した、こうした様々なキャラクターが入り乱れる群像劇はゼロ年代の日本語圏のフィクションにわりとみられたような気がしている(たとえばクドカン作品とか恩田陸『ドミノ』とか。いやほかにももっとあると思うんだけど)のだけど、そのなかでも成田良悟はとりわけガイ・リッチー的な作劇を自家薬籠中の物としていた。2007年に放映された成田良悟原作のアニメ『バッカーノ!』は、岸田隆宏のキャラクターデザインが素晴らしく、三つの事件を並列で進行させていく作劇も見ごたえがあったが、一方で序盤で時系列をかなりいじくりまわしているので出来事とキャラクターの把握が原作未読者にはなかなか難儀なのではという気もした。14年を経て、まったくトーンは違えどこうしたサスペンス群像劇が、相当洗練されたかたちで出てきたことが、とにかくうれしかった。

 序盤、どうにも信用ならなそうな男として立ち現れた小戸川が、次第に『血の収穫』ばりに悪党どものあいだを動き回って事件の収拾をはかろうとしはじめ、どうもかみ合っていない芸人コンビの挿話や、売り出し中のアイドルの裏の顔、そして小戸川の隠された過去を追う医師などそれぞれのストーリーラインが並走する中盤から結部にかけてはまさに息つく間もないスリリングさ。彼らが動物として表象されていることにすら理由付けしてしまう(そしてそれが小戸川にとって特異な武器であったことがわかる)仕掛けは、我々の眼と主人公たる小戸川の眼を接続することで彼の特権を基礎づけてしまう、極めて巧妙なトリックだったと思う。

 露悪的な題材を選びながらもキャラクターには死そのものはほとんど訪れず、それでも人間たちは生きていくのだというトーンで物語は終わる。あからさまに不穏なラストカットも、作品全体のそのトーンを覆すものではないだろうと思う。

 そのトーンは、奇しくも今年公開された濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』と相似形なのかもしれないとも思う。形式もジャンルも、劇中で起こる出来事もまるで異なるこの二つの作品だが、「車の運転」が極めて重要な意味を付与されているという点でこの二つの作品を接続してみてもよい、という気がしている。中年男性のささやかな救済の物語であるという点も共通している。

 それでも生きていかなきゃならない、と大仰ではない仕方で、静かに呟くようなトーン。『ドライブ・マイ・カー』のそれが実存の奥深くの部分にそっと触れるようなウェットさだったとすれば、この『オッドタクシー』はもっと乾いた事務的な調子がある。それはタクシードライバーが、偶然乗り合わせた人間を、事務的に目的地に運ぶ職業だからだろうか。この物語に現れた人々がタクシーという空間に導かれたのは、それぞれがここではない何処かを目指して彷徨う故であり、そしてそうした人々を送り届けることがタクシードライバーの義務と責務であるならば、この作品は見事にそれを完遂したといえるだろう。ほとんど擦り切れてしまっていてなお、良心を発揮しうる拠り所が我々の都市にもありえるはずだとかすかに呟くこのおとぎ話は、疑いなくこの時代の空気を吸い込んでいる。