宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

幼稚なユートピアの擁護のために——ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』感想

21世紀の道徳

 ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』を読んで、啓蒙されたので、以下、考えたことを記しておきます。

 本書は、おおまかに「学問の意義」「功利主義」「ジェンダー論」「幸福論」を扱う4部構成で、各章の独立性も高く、この一冊で相当広いトピックが扱われている。著者のベンジャミン・クリッツァーは在野の批評家。ブログ「道徳的動物日記」の著者であるブロガー、デビット・ライスとしても活動している。

 ヴィーガニズム、「権利」という語彙、「ロマンティック・・ラブ」、「ブルシット・ジョブ」等々の話題を、倫理学―—特に印象的に引用されるのはピーター・シンガーである——の知見を参照して論じていくのだが、論旨は明瞭で結論も説得性があり、はっきりいってめっちゃ啓蒙されてしまいました。本書であつかわれている事柄に関連する話題をふられたら、したり顔で本書に書いてあったことを口にしちゃうかも、と思うくらい。

 そうした個別の議論における姿勢を支えているのは、まえがきで書かれている以下の前提であるように思われる。(『21世紀の道徳』の「まえがき」を公開します|晶文社|note

わたしが観察したところ、言論に関する二つの潮流が、この傾向の原因となっている。ひとつは、現代社会におけるなにもかもを「資本主義」や「新自由主義」などと結びつけて、高尚な文化に触れたときの感動や仕事における充実感や家庭を築くことへの願望などについて「それらの感覚や願望は資本主義や権力が経済や社会を都合よく運営するために人々に植えつけたものであり、イデオロギーの産物であるため、本質的にはなんの価値もない」という風に断定して切り捨てるタイプの主張が流行っていること。もうひとつは、「自己責任論」を否定して、人々が抱えているありとあらゆる苦悩をすべて政治や権力構造などに結びつけて、個人レベルに思える問題であっても社会レベルの対処が必要である、と力説するタイプの主張が流行っていることだ。前者はニヒリストの批評家がヘラヘラしながら語りがちな主張であり、後者は情熱的な社会運動家たちが真剣に唱えている主張である。

どちらの議論にせよ、まったくの間違いというわけでもないかもしれない。しかし、彼や彼女の議論は往々にして極端だ。この二つの議論を真に受けた若者たちは、「すべての幸福や価値はつくりごとなのだから自分ががんばってそれらを獲得しようとすることには意味がなく、自分に降りかかってくる問題はすべて社会や政治のせいだから自分自身で対処しようとしてもなにも解決できない」と思いこむことになる。問題なのは、このような無力感や他責的な考え方は、それを内面化した本人の人生を不幸な方向へと導くということだ。*1

  それではそのような認識がわたしたちを不幸にするとして、わたしたちはいかなる方策をとりうるか。たとえば幸福とはなにか、あるいは労働とどう向き合うべきか、というトピックについて、以下のように結論付ける。

幸福になりたいと願うなら、わたしたちは理性を駆使したり意志力を鍛えたりして徳を実践しながら人生における目標を定めなければいけないのである。結局のところ、パンクで民主主義的な快楽賛歌よりも、道徳の時間で聞かされるようなお説教のほうが正解であるということなのかもしれない。*2

労働者が幸せになるためには、仕事に対する前向きな気持ちを捨てずに、自分が満足感を抱けるような仕事を、探しつづけるしかないのかもしれない。*3

 著者自身が「お説教」と形容するこれらの姿勢は、至極まっとうで、ほとんど反論の余地はないと思う。そうしたほうがいいに決まっていると思う。

 わたくし自身、就職活動で資本主義の走狗ども向けにわたくし自身を飾り立てるため、くだらん「ガクチカ」を捏造したりとか、従順で熱心に仕事にとりくみまっせ、みたいなことを絶対にしたくなかったので、就職活動をまったくせずになんとなく大学院を出た、ということがあって、それはおそらく、クリッツァーが「情熱的な社会運動家たち」と形容する人たちの言論活動に多かれ少なかれ影響を受けた結果だったと思う。

 それから10年弱がすぎて、大学院生のころにそういう幼稚な信念と心中するかたちで就職活動から背を向けたことは、どちらかといえばわたくしの人生をスポイルする結果になったかも...という気もしている。あのときはたぶん、自身の潔癖と怠惰とを正当化する語彙を探していただけだったのかもしれない。でも、多くの人は就職活動なんて茶番に(たぶんきっと)疑念をいだきつつも、それに折り合いをつけて、労働の世界に足を踏み入れるんだろう。それが中庸、あるいは大人になるということなのかも、とも。

 とはいえ、「「自己責任論」を否定して、人々が抱えているありとあらゆる苦悩をすべて政治や権力構造などに結びつけて、個人レベルに思える問題であっても社会レベルの対処が必要である、と力説する」タイプの言論も意味があると信じたいという気もしていて、やっぱりわたしたちが日々感じる生きづらさみたいなものの原因を外化して、「わたしのせいだけじゃない」と思う(そしてそれは現にそうだと信じている)ことは、わたくしの人生をほんのちょっと救うかも、とも思うし、それが「わたし」を越えて「わたし」をとりまく人間関係とか社会とか世界とかを変えていくかもしれない可能性を生み出すはず、とも。

 こうした、社会や世界を変えることはほとんどないが、しかしその可能性はないとはいえない...みたいな幼稚なユートピア願望で武装するための縁として、社会理論は価値があると信じる。たとえばわたしたちがおおむね前向きに労働に取り組んでいたとして、ふとその無意味さ・無価値さにおののいたとき、それをうまく説明してわたくしたちの感情から切り離し、その重みを軽くするための支えとなるような——という言い方をすると、それってわたくしたちをただ慰撫するだけでなんも解決してねーじゃん!となる気もするんだけど。

 でも、こうした幼稚なユートピア願望が、著者が以前から強く批判している御田寺圭なんかに吸引されて、結果多くの人の人生ないしそれによってかたちづくられる社会を毀損しているという気はやっぱりして、それはマジで最悪だなとも思う。

davitrice.hatenadiary.jp

 幼稚なユートピア願望、すなわち「ここではないどこか」を希求するぼんやりとした気持ちを、こうした憎悪をあおるプロパガンダに回収されないようなかたちで擁護する方策を、わたくしとしては考えてみたくで、だからアニメとか映画とか、みてるのかもしれません。

 

 

 

*1:p.10

*2:p.321

*3:p.352