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なぜ空想は書かれたか?——山田風太郎『八犬伝』感想

八犬伝 上: 山田風太郎傑作選 江戸篇 (河出文庫)

 山田風太郎八犬伝』をこのところ読んでいました。以下、感想。

 曲亭馬琴は構想していた。海の向こうで紡がれた大古典、『水滸伝』を下敷きに、宿縁によって集った勇士たちが正義をなす物語を。八犬士たちが躍動する「虚」の世界と、曲亭馬琴の身にふりかかるよしなしごとを描く「実」の世界、28年にわたって繰り返される往復の果て、やがて虚実冥合の境地に至る......。

 山田風太郎による『南総里見八犬伝』の翻案は、同作の骨組みを取り出して鮮烈な活劇へと再構成した「虚の世界」と、その作者曲亭馬琴の生活世界を舞台とする「実の世界」を互い違いに描く構成。「虚の世界」は執筆以前に葛飾北斎などの知人に馬琴が語ったものという位置づけになっており、大胆な省略がエクスキューズされているが、まさにこの省略ゆえに活劇としてのダイナミズムはいかんなく発揮されていてめっぽうおもしろい。室町期に飛び散る血しぶきの鮮烈さは、山田風太郎が世に送り出した金字塔、能力バトルものの祖といってもいいだろう忍法帖の数々の想像力の源泉だったのだろうか。古典を相手取り、それを自分のものとしてしまえる腕力のすさまじさよ。

 そういうわけだから、この『八犬伝』はフィクションを語ることについてのフィクション、すなわちメタフィクション性を帯びる。明治にあっては坪内逍遥小説神髄』のなかでその勧善懲悪の世界観を槍玉にあげられることになる、『南総里見八犬伝』。そのような単純無比かつ荒唐無稽な活劇を、なぜこの男は書かねばならなかったのか。

勝利者たちが徳を説き、敗北者たちが不徳を悔いる。その双方の説教やざんげが物語の興趣を傷つけることを、馬琴は意に介しない。
「ー私はそれを書くために小説をかいているのだ!」
この目的意識は、彼の胸中に回復し、いよいよぬきがたいものになった。
「南北よきけ、人間の実とやらをかいて何になる。そんなものは、まわりの世界を見ておればすむことではないか?」*1

これといった罪も悪も犯さないのに、何らかのかたちで苦しみつづけている人々は無数にある。むしろそれこそが人間の実の世界の大半といっていいのではないか。
「だから、正義と悪とがたたかい、正義が悪に勝つ過程をえがいてこそ小説の存在意義があるのだ」
馬琴はこのとき、地獄極楽の観念を創造した宗教者と同じ存在になっていた。
「だから……架空事であっても、私は正義の物語をかくのだ。だから私は、伝奇小説によって、まちがった実の世界の集積ーー歴史を正すのだ!」*2

 ドストエフスキー的な主題の響きも感じられる、神も仏もない世界で、その世界と個人とが対抗するために要請されたフィクション。この山田風太郎による『八犬伝』は、ここからさらに飛躍し、「実の世界」が神話的相貌をまとってしまうという事態を描くのだが、しかしもっともわたくしの胸を打った一節は上記の引用部分だった。正義の物語が、弱い人間を慰撫するだけでなく、世界そのものと対峙する術としてあらんこと、それを素朴に祈る。

 

 

 

*1:p.390

*2:p.391