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キャラクターとセカイとの決闘では、セカイに介添えせよ——『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』感想

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 『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』をみました。以下、感想。結末に触れています。

 2118年、日本列島。人間の心理状態をスキャンして数値化し、それに基づいて管理・選別を行うシビュラ・システムにおおわれた日本列島。シビュラ・システムはもはや自明のインフラストラクチャーとなり、その管理により理想社会が実現されたとみなす人々のあいだでは、「法律の廃止」すら議論にのぼる状況になっていた。その趨勢に反対し会議の場で気炎を上げる厚生省公安局の統括監視官、常守朱だったが、会議の最中、横浜沖で外国船舶をめぐる事件が発生したとの報告が入る。その事件に外務省と共同で捜査にあたることになった公安局の面々だったが、外務省側の捜査官として思いもよらぬ旧知の人物が現れる。

 2012年のテレビアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』に始まるシリーズの最新作は、2019年に放映された『PSYCHO-PASS サイコパス 3』の前日譚。『3』で獄中の人となっていた常守が、いかなる理由でその立場を選択したかが語られる。外務省がかつて汚れ仕事を請け負わせていた秘密部隊で、いまは独立愚連隊と化した「ピースブレイカー」なる集団と、公安局・外務省の面々が対峙するこの映画は、SF刑事ものというよりは軍事アクション的な色合いが濃い。敵集団は重火器で武装しており、ところどころの絵面は戦争映画的でもある。

 格闘アクションは相変わらずの力のいれようで、リアリスティックな体さばきはおもしろくみたが、しかし構図がやや単調でアニメ的な外連味に欠ける感じもした。狡噛と宜野座のコンビで戦うシークエンスで、宜野座の義手の鉄拳が敵の頭部を粉砕する瞬間など、もっと強烈な見せ方をしてくれてもいいのに...。

 お話はというと、冒頭で示された「法律の廃止」というトピックが結部で重要な意味をもつのだが、そのことが「ピースブレイカー」たちの思惑や犯罪行為ともかならずしも有機的に連関していない印象を受け、それが映画としてのまとまりを損ねているようにも感じられる。また「ピースブレイカー」が——TVシリーズ1期や2期の敵とちがって——システムそのものを揺るがすような敵としては設定されておらず、その意味でもドラマの緊張感はかならずしも高くない。

 そして何より、「法律の廃止」という賭け金が問題なのだ。はじめ、わたくしはこれを「刑法」の廃止のパラフレーズだと思った。それならもうドミネーターの判断で拘束から死刑まで自由自在の作品世界の状況から、ほとんど意味をなしていないようにも思えるので納得がいく。しかし劇中ではどうにも「法務省の解体」まで言及されており、「法律の廃止」はあらゆる法律の廃止を指しているらしいとなって、一気にこの世界のことがわからなくなった。あらゆる法律が廃止されたならば、法務省のみならず厚生省、外務省その他省庁すべてがその職責の根拠を失い、国家そのものが解体されるのではなかろうか。作中で法律の廃止を推し進めているらしい官僚たちが極限のアナーキストのようにみえるかといえば、そんなこともない。彼らは「法律の廃止」後もその地位を脅かされることはなさそうなのだ。

 連中はシビュラ・システムがある以上、法律がなくても国家や行政機能は存続すると考えているようだ。これがわからない。あらゆる役人の仕事の根拠は究極的にはなんらかの法令だろう。それがなくなるという。作品世界の「法律の廃止」によってどういう事態がおこると想定されているか、きちんと推測できているかわたくし自身定かでないが、しかしどうにも作り手は「法律」の存在をあまりに軽視しているようにしか思えないのである。現実の法律は法治国家のすみずみまで規定するものであるが、この作品で法は犯罪者を裁く道具としかみなされていない気がするのだ。

 構成・脚本にクレジットされている冲方丁は、現在連載中の『マルドゥック・アノニマス』のなかで、主要なバトルのアリーナの一つを法廷に設定しようとしている。主人公のルーン・バロット・フェニックスは法学部の学生という設定で、将来的にはその専門性を活かす職に就こうとしていることが描かれる。その意味でまさしく作品の中核的なガジェットのひとつが法であるわけだけれど、その冲方が法をめぐるフィクションでこの映画みたいな雑駁なことやるはずない...と思うんだけど。このあたりどういう実質的な役割分担があっていまのお話のロジックが成立したのか、いまいちよくわからない。

 「法律の廃止」に傾いた世論を覆すため、常守は公衆の面前で殺人を行う。殺人を犯したにもかかわらずシビュラ・システムに断罪される閾値を超えない状態がありうる、ということを示すために。それによってシビュラ・システムは無謬ではなく、刑法がなければ犯罪を裁けない可能性があることを実証したので、「法律の廃止」は時期尚早との世論が高まり、法務省も維持されることになる...。

 でもこれも変だ。これ、世論が指弾すべきは「法律の廃止」でなくて、だれがみても明らかな殺人者の数値計測に失敗しているシビュラ・システムのほうなんじゃないか?システムの欠陥を、もう誰の目にも明らかなレベルで明かしてしまってるわけじゃん。そうでなければ世論が動くなんてありえないんだから。

 常守収監に至る流れを描くため、彼女が信念をつらぬきつつ、しかし犯罪を犯すという展開が要請されるのはわかる。でもこの映画の展開は、世界そのものをキャラクターのために奉仕させて、その世界のリアリティをすり減らしているように思えてならないのだ。キャラクターのドラマを継続させるために、作品世界のリアリティは決定的に毀損されている、といってもいい。

 TVシリーズ1期には、キャラクターとこのディストピアのあいだに確かな緊張関係があって、そのことが作品を魅力的なものにしていたし、だからこそわたしたちと現実との関係になにか示唆を与えうる強度が宿っていた...かもしれない。でもシリーズが継続していくことで、キャラクターと世界の緊張関係は決定的に失われている。それが残念でならない。キャラクターとセカイとの決闘では、セカイに介添えせねばらないのだ。それが逆説的に、キャラクターを一層輝かすにちがいないのだから。

 

 

 

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 アニメ1期の冒頭、ヘリコプターから都市を見下ろすカットにSF刑事ものの金字塔『攻殻機動隊』、もっといえば押井守監督『イノセンス』(2004年)への目配せを感じたが、この劇場版でも強い既視感を覚えた。それは作品世界で海外との窓口となっている「出島」で、これがあからさまに『イノセンス』の「択捉経済特区」のビジュアルの引用になっているのだ。林立する荘厳な高層ビル群を映すカットはもとより、中国風の祭りのシーンなども挿入されたり、オマージュにしてはやや過剰の感じを受けた。また戦車の重機関銃で石柱の影に隠れるも、石柱がどんどん削られていく…というのはあからさまな『Ghost in the Shell』への目配せでしょう。しかしその危機からの脱出方法はいかにも尻切れとんぼで新味がなく、目配せ以上のものになっていない。

 そういうことやっているうちは、結局『攻殻機動隊SAC』の足元にもおよばない作品であり続けるんじゃない?とも思っちゃうわ。だからどうしたという話ではある。しかしわたくしにとって『攻殻機動隊SAC』がいかに偉大な作品であり趣味嗜好を規定しているか、強く思い知らされるところではあります。

amberfeb.hatenablog.com

 

わたくし冲方丁を小説家としてめちゃくちゃ高く買っている(『マルドゥック・アノニマス』があまりにすさまじいため)んですが、『サイコパス』に関しては虚淵玄の遺産をうまく相続できてない(そして虚淵自身もこの作品世界にそう未練はなさそう)感じが、やや不憫におもいます。しかし虚淵玄はつくづく2010年代を代表する一人だとあらためて思い知らされますね。

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