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映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

燃え尽きる炎——『ボイリング・ポイント/沸騰』感想

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 『ボイリング・ポイント/沸騰』をみたので感想。

 ロンドンの高級レストラン。そこに向かう、電話中の男。口調はけわしく、足取りは重い。どうやら家族関係で大きな問題を抱えているらしい。男はレストランのオーナーシェフ。クリスマス前の金曜日で、店は予約の客でいっぱいになるはず。だがいきなり衛生状況のチェックで芳しくない結果を突き付けられ、また因縁ある別の店のシェフが訪れることを知らされる。それでも開店時間はやってくる。そして男は、心身の限界へとじりじりと近づいてゆく...。

 90分ワンカットで、高級レストランの最もせわしい時間を切り取る。監督はフィリップ・バランティーニ。主演は近年は『アイリッシュ・マン』などに出演するスティーヴン・グレアムWikipediaで出演作をみるまで、『スナッチ』でジェイソン・ステイサムの相棒役をやってたなよっとした男だとわかりませんでした。20年という時間は人間が貫録を備えうるに十分な時間というわけですね。因縁ある他店のシェフにはジェイソン・フレミングが配され、こちらも『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』から印象がだいぶ変わってて驚く。

 主役はオーナーシェフのアンディだといっていいだろうが、90分のあいだにレストランの従業員たちを次々とカメラの中心に置き、群像劇風味のあじわい。いれかわり立ち代わり、個性あふれる従業員たちの立ち振る舞いが切り取られるので、決して広くはない空間を舞台にしているにもかかわらず、単調なものにはなっていない。そもそも事件が発生しまくるので、単調になるわけはないんだけど...。

 ほとんどパンクしているのではとも思える膨大な仕事をかかえた料理人たちには緊張感がみなぎり、そしてそれは積年の不満を燃料として時折大爆発を起こす。とりわけ、ヴィネット・ロビンソン演じる副料理長が、経営者相手に啖呵をきってみせるシーンの不穏さと昏い爽快感といったらない。父親から経営者の座を継いだと思われるこの女性経営者は、有無を言わさず仕込みを中断させてミーティングを開いたり、軽薄なインフルエンサーの要求を容易く飲んで厨房に負担をかけたりと、料理人たちにとっては厄介な存在として描かれる。その人物が「SNSいじっている時間の半分くらい経営を学ぶことにつかったら?」と皮肉を喰らわされるんだから、みているこちらもなんとなく気持ちよくなってしまうのだ。

 だから終盤、アンディにとって右腕ともいえるこの副料理長を「切る」か否か、という問いに対して、我々観客の期待する回答は決まっていて、それをおそらくがけっぷちの男も共有しているにもかかわらず、不幸なすれ違いで破局を迎えてしまう(しかも男にはそのディスコミュニケーションを修正する余力など残っていない)ことの悲しさといったらない。

 結部で崩れ落ちる男の姿を映してようやくワンカットの終わりが来るこの映画には、教訓や思想はない。ただ燃え尽きようとする男の、最後のかすかな輝きが確かに映っている。

 

 

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