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「世界」には口答えできない——コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』感想

ノー・カントリー・フォー・オールド・メン (ハヤカワepi文庫)

 コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』(現在は出版社を変えて原題通りの『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』となってるんですね)を読みました。追悼です。以下、感想。

 1980年ごろ、アメリカ合衆国テキサス州ベトナム戦争帰りでいまは溶接工としてはたらく男ルウェリン・モスは、麻薬取引のいざこざの結果、共倒れになったマフィアたちと、多額の現金が入ったブリーフケースを発見する。人生すべてをかけても稼げないであろう金銭を目の前にして運命の選択を迫られたモスは、それを持ち去ることを選ぶ。それが破滅を導くことを彼が理解していたかは知る由もない。そして、麻薬取引失敗の後始末と現金の奪取を依頼された男、アントン・シュガーは、ゆく先々で死を振りまき、モスを追う。

 2005年に発表され、2007年にコーエン兄弟によって製作され高い評価を得た映画『ノーカントリー』(邦題。原題は原作に同じ)の原作。わたくしはこの映画版がとても好きで繰り返しみていたんだが、原作は長いこと積読状態で結局手放してしまった。このたびコーマック・マッカーシー逝去の報を受け、追悼と思って読んだんですが、改めて、コーエン兄弟の映画化が原作の精神性を見事に体現していたのだなと感じました。

 文体は極めてソリッド。内面の描写はほとんど徹底的に排され、登場人物の発する言葉と行動の描写がひたすら積み上げられていく。ダシール・ハメットに代表されるハードボイルド小説の文体のある種の典型ではないかという印象を受けたが、マッカーシーは読点(原文だとカンマだろうか)をほとんど用いず、また会話文を括弧でくくっていないこともあって独特のドライブ感が出てくる。ある人物の固有の発話というよりも、なにかその場の引力みたいなものが人間に発話させているような調子がある、気がする。

 さて、この『血と暴力の国』、あるいはコーエン兄弟の映画版の印象を鮮烈にしているものといえば、疑いなく殺し屋、アントン・シュガー(映画版の翻訳ではシガー。訳者あとがきによれば実際の発音はこちらに近いようだ)の存在だろう。前述した内面の描写がないことも手伝って、このゆく先々で死体の山を築く殺し屋は、人間性が希薄である種の概念のようにも思えてくる。

 原作では「特徴なんてなにもない」*1と目撃者によって言及されることも、その非人間的な感触を補強する。一方で、映画版ではハビエル・バルデムを配役し、明らかに異様な雰囲気をまとった男としてスクリーンにあらわれるわけだが、こちらの説得性もすさまじい。

人生の一瞬一瞬が曲がり角であり人はその一瞬一瞬に選択をする。どこかの時点でおまえはある選択をした。そこからここにたどり着いたんだ。決算の手順は厳密だ。輪郭はきちんと描かれている。どの線も消されることはありえない。*2

おれがおまえの人生の中に登場したときおまえの人生は終わったんだ。それには始まりがあり中間があり終わりがある。今がその終わりだ。もっと違ったふうになりえたと言うことはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。だがそんなことを言ってなんになる? これはほかの道じゃない。これはこの道だ。おまえはおれに世界に対して口答えしてくれと頼んでるんだ。わかるか?*3

 この、世界の法則の代理人とも形容したくなるシガーの発話の魅力といったら。のちにマッカーシーリドリー・スコットと組んでてがけることになる『悪の法則』もまた、このようなかたちで口答えを許さない「世界」との対峙を迫られるという構図があり、ある意味ではこの『血と暴力の国』の再話ともいえるだろう。しかし高い評価を得た『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』に対して『悪の法則』がかならずしもすぐれた映画とみなされていないのは、その「世界」を組織犯罪の網の目のようなかたちでリアリスティックに描いたことで、逆に映画的な説得性を欠いていたからかもしれない。

 この小説の原題を直訳するならば、「老人の住む国にあらず」(訳者あとがきによる)。しかし、このようなむき出しの「世界」そのものと対峙をせまられる国に、誰が住むことができるだろうか。乾いた昏さともいうべき語りのトーンが身体にせまってくる、きわめてスリリングな小説経験でした。

 

 

 

 

*1:p.387。とはいえこの少年の証言が、現金を与えてくれたシュガーに義理立てしたものでないとも限らないとは思うんだけど。

*2:p.340

*3:p.341