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100年前の素朴な殺人者たち────『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』感想

映画ポスター 海外版 キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン (28 cm x 43 cm) APMPS-AB03565 [U.S. Made Poster]

 『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』をみました。3時間半の映画、家でちゃんとみるのは厳しかろうと思うので、劇場に足を運べてよかった。以下感想。

 1920年代、アメリカ合衆国オクラホマ州。故地を追われたアメリカ先住民、オーセージ族は、居留地から石油が湧き出たことで巨万の富を得、合衆国でも屈指の富裕な集団となった。そこに戦争帰りの青年、アーネスト・バークハートレオナルド・ディカプリオ)が、街の顔役である叔父、ウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼って訪ねてくる。叔父の下で暮らすうち、次第にオーセージ族の女性、モリー(リリー・グラッドストーン)と親しくなるアルバートだったが、そこに不可分に結びつく巨万の富への欲望が、この平凡な男を地獄へといざなうことになる。

 デヴィッド・グランによるルポルタージュを下敷きにした、実録犯罪劇。監督は『タクシー・ドライバー』、『グッドフェローズ』の巨匠、マーティン・スコセッシ。ディカプリオもデ・ニーロもスコセッシと何度も仕事をしているが、3時間半の長尺を退屈なものにさせないのは、この二人の吸引力によるところも大きいだろう。

 周囲からは「キング」とよばれる街の顔役を演じるデ・ニーロは、いっけんやわらなか物腰で高圧的な様子も感じさせないが、顔色一つ変えずに殺人を命じるとんでもない悪党。ここはインディアンの土地だ、オーセージ族は賢い、と口では語りつつ、日ごろは「友人」として親しくしている彼らをなんの躊躇もなく殺害していく。愚かなミスをした甥を折檻するために秘密結社の集会所めいた部屋に呼び出すところとか、撮影の雰囲気もぐっと一変するのもあいまって超怖い。

 アルバートが呼び出しを受けるシーンはこのあと、裁判の証言をめぐるやりとりの前にもあるのだがそこも超怖くて、この暴力にまみれた映画のなかで、銃での殺害のような暴力シーンはあんがいカラっと乾いていてさほど嫌な余韻を残さないのだけれど、この二つの呼び出しのところのじめっとした感触の有形無形の暴力性は特に強く印象に残った。

 一方で、連邦政府から派遣されてきた捜査官たちが画面に姿をみせるようになってくると、地縁によって守られてきたこの男の権威にもほころびがみえるようになってきて、下っ端のチンピラたちを手際よく葬ろうとするところなど鮮やかだが、目当ての保険金は入らないし、農場での火事などどうみても自作自演で、このあたりの拙さが決して「悪のカリスマ」然とはしていないこの男の立ち位置を示している。それがむしろ、市井の人にまぎれる巨悪としての説得性を与えていて、この映画の核心になっている、という気がする。

 さて、ディカプリオ演じるその甥、アルバートは、ほとんど叔父の言うまま、おそらくは単純な金欲しさでオーセージ族との婚姻と財産剥奪の陰謀に加担していく。そこには成り上がろうという野心はなく、ただぼんやりとした金銭欲があり、さまざまな犯罪行為に手を染める。オーセージ族をめぐる陰謀以外にも、夜遊びの金欲しさに強盗を働いているような描写もあって、戦争帰りの市井のチンピラという風情なのだが、これ、ディカプリオが演じていなければ適当に切り捨てられる一介のモブにすぎなくて、ただ顔役との血縁関係だけでキーパーソンになっている、平凡で優柔不断な男なのだ。

 だから義理の妹夫婦を爆殺した現場をみて、(まさに自分がその手配をしたにもかかわらず)なんて残酷なことが起きたんだというような後悔の表情を浮かべもするし、叔父を破滅させる証言をするのか、しないのか、というところでぐだぐだと立場を二転三転させる。妻をおそらく素朴に愛してはいて、しかしおそらく毒物が入っているであろう薬を、それにぼんやりと気付いていながらも与え続けてしまう愚かさ。この、とくに深い確信もなく残酷な殺人に加担してしまう素朴さ、愚かさを、叔父の確信的な。しかし拙劣でもある犯罪性との両輪で示しているところに、この映画のおもしろみはあると思う。悪は洗練も確信も必要とせず、しかしたやすく人を殺す。この映画はそう語っているような気がした。