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我々の新しい自由のために──デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』感想

万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~

 このところ、デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』を読んでいました。本文600頁ほど、二段組のいかつい本で、そんなのを読むのは久しぶりだったから半ば意地になって読み進めたようなところもあり…ひとまず読み終えました。以下、感想。

 われわれをとりまく社会。資本主義経済が世界を多い、主権国家の群れとその官僚制による統治のシステムにおおわれた「いま・ここ」。歴史をめぐる語り、とりわけ巨視的なスケールでの語りは、こうした「いま・ここ」に至るルートを跡付ける、すなわちヨーロッパ西部で彫琢された制度や価値が地球上を覆うにいたる道程を論じるものになっている。

 しかし、それでは何かが語り落されてはいないか。「いま・ここ」に至る過程でみえなくなってしまったもののなかに、我々が想像だにしないような仕方で営まれていた社会生活があり、自由があり、人類の可能性があったのではないか。ヨーロッパ近代はそうした可能性を無視し、あるいは簒奪し、人権や民主主義というような価値を作り上げると同時に、支配と制御のシステムを構築していったのではないか。

 これまで探求されてきた、「人類はいつ・なぜ不平等になったのか」という問いは、問いそのものが誤っている。我々はむしろこう問うべきなのだ。「わたしたちはどうして閉塞したのか」と。『万物の黎明』は先史時代や「未開」の人々をめぐる過去の掘り起こしによって、いま・ここが別様でもありえるのだ、不変・普遍のような面構えでのさばっている我々の社会は変わりうるのだと力強く説く、革命の書なのだ。

 

 著者のデヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ』で本邦でもポピュラリティを得た人類学者で、もう一人の著者、デヴィッド・ウェングロウはアフリカや中東をフィールドとする考古学者(著書はまだ邦訳されていないようだ)。グレーバーは本書の完成直後の2020年に亡くなっていて、この『万物の黎明』が遺著ということになる。

 ヨーロッパ近代でかたちづくられたと考えられてきた制度や価値が、実は北アメリカ大陸先住民族たちとの接触によって輸入されたものではないか、というような話は、グレーバーの以前の著作『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』なんかのエッセンスも入っているだろうし、考古学関係の叙述はウェングロウの論文が下敷きになっているようだから、二人の著者の知見が余すところなくつぎ込まれた結果、本はめちゃくちゃ分厚くなっている。とにかく、事実のディテールを積み重ねることで我々の歴史にかかわる常識がいかに一面的で偏狭であるかを説得するような叙述になっていて、難解な概念がでてきたりとかではないんだが、読み進めるのに体力を使う本ではあった。

 ウェブ上で読めるイントロダクションとして、『WIRED』紙の以下の記事が好適。

人間はずっと人間を誤解してきた:人類についてのあらゆる定説を覆す話題書『Dawn of Everything』 | WIRED.jp

著者らはむしろ、先史時代の社会を「政治形態のカーニバル・パレード」と表現する。そこでは、騒々しい社会実験が次々と繰り返され、親族制度や埋葬の儀式、ジェンダー関係や戦争といったあらゆるものがひたすら構想され、再構想され、風刺され、廃止され、改革され続けてきたという。カール・マルクスを彷彿とさせる不遜なほどの知的挑戦において、ウェングロウとグレーバーはこの洞察をもとに、人類に関するあらゆる定説を覆そうと、つまり万物をとらえ直そうとしているのだ。

ウェングロウとグレーバーはさらに、先住民の社会は原始的な方法で組織化されていたにすぎないという仮説にも疑問を投げかける。実際、その社会は複雑かつ変幻自在だった。シャイアン族とラコタ族は警察部隊を組織していたが、その唯一の任務は人々をバッファロー狩りに参加させることであり、オフシーズンに入ると即座に部隊を解散していた。一方、現在のミシシッピ州に暮らしていたナチェズ族は、全知全能の独裁者を敬うふりをしつつ、実は君主は出不精だから追いかけてくることはないと知ったうえで自由に行動していた。

さらにウェングロウとグレーバーは、巨大な遺跡や墓は階級制度の証拠であるという通説にも見直しを迫る。特に刺激的だったのは、旧石器時代の墓の大半には有力者ではなく、小人症、巨人症、脊椎異常など身体的異常のある人々が埋葬されていたというくだりだ。こうした社会では、上流階級の者よりも異端者が崇拝されていたようだ。

 グレーバーとウェングロウは、ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリ、スティーブン・ピンカーらの人類史に関する仕事を仮想敵の一つとしていて、しばしば批判的に言及する。ああなるほど、と思わされたのは、それらの仕事をルソー的あるいはホッブズ的なある種の進歩史観の後裔ととらえていること。ルソー的にいえば、本来であれば人類は自由を謳歌していたのだが、社会集団の規模が大きくなるにつれ管理のシステム、すなわち国家が要請されるようになった。一方ホッブズはこの裏返しで、もともと人類はたがいに疑心暗鬼で苛みあっていたのだが、暴力を独占する国家の出現によって、結果的に無軌道な暴力の発露は抑制されるようになったとする。ピンカー『暴力の人類史』はこのホッブズ史観の現代的バージョンにすぎないじゃんね、というわけ。

 ホッブズもルソーも国家の形成をある種の必然とみる見方にたっていて、この前提から出発するので本書が取り上げた、国家を形成せずに、けっこう大きな共同体を維持していくような社会生活のあり方を見落としてしまう…というわけ。

 このことで連想したのは、網野善彦の仕事のこと。網野が手掛けた通史、『日本社会の歴史』は、統治の制度の彫琢によって、自由が衰退していく…という大きな見立てがあったし、代表作であろう『無縁・公界・楽』もそういうトーンだろう。

 

 小路田泰直「網野史学の越え方について」で、網野善彦インパクトを、「歴史の原点に原始共同体ではなく「原無縁」という名の「原近代」を措き、歴史を「原近代」の衰弱と蘇生の歴史としてとらえる見方を提示したこと」としていて、この「原無縁」なんかは『万物の黎明』とも共鳴する気がするし、こういう仕方での網野善彦再発見の途があるのかも…と思ったりした。

amberfeb.hatenablog.com

 

 浩瀚な、という形容がまったく適切であるだろう本書を十分に読めたとはまったく思わないのだけど、いろいろ連想がわいてくる、楽しい読書でした。物理的に重くて電車のなかで読むのめちゃしんどかったけれど…。

 

 

本書を経由して改めて(批判対象となっている)『銃・病原菌・鉄』再読してもよいかもなーと思ったりしました。わたくしたいへんおもしろく読んだんだけど、いま読み返すとどうすかね(かわらずおもしろく読めちゃう気もする)。