宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

岡田育『我は、おばさん』の世直し、あるいはおじさんと斜めの関係のこと

我は、おばさん (集英社文芸単行本)

 岡田育『我は、おばさん』を読んでいました。以下、感想。

 「おばさん」という語を他人に直接投げかけることは、成人男性であるわたくしには普通できないし、やってはならないことだろう。第三者を「おばさん」とわざわざ形容するとき、そこにある種の侮蔑的なニュアンスがあることは否定しがたい。本書は、時に自嘲気味な自称としてつかわれたり、あるいは他者からそう名指されると嫌悪感をもつ人もいたり、つまりネガティブな言葉として流通してしまっている「おばさん」を引き受け、そこに肯定的な意味を付与するために、そうした「おばさん」たちが生き生きと、あるいは苦しみながら生きるさまを描いたフィクションを参照していく。そのようにして、著者は「おばさん」であることを引き受けて、そのうえで世界と対峙する術を探ろうというわけだ。

 川上未映子『夏物語』、ヤマシタトモコ『違国日記』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』等々、扱われる作品は多岐にわたり、それらが「おばさん」を引き受けた書き手によって読まれることで、「おばさん」の可能性が引き出されていく。アイデンティティ、実存と密接に結びつき、それを肯定的なものとしてとらえかえすよすがとして、フィクションと関係がもたれる。その実存が、日常語として流通する「おばさん」であるからして、この批評は単に私的なアイデンティティの探求を超え、普遍性を帯びる。それを世直しといってもいいだろう。

 著者が見出した「おばさん」の可能性は、端的に以下の部分に要約されている。

「おばさん」とは、みずからの加齢を引き受けた女性。年若い者に手を差し伸べ、有形無形の贈り物を授ける年長者。後に続くすべての小さな妹たちをエイジズムから守る、世代を超えたシスターフッドの中間的な存在。歳を重ねるのも悪くはないと教え、家族の外にあって家族を解体し、時として血よりも濃い新たな関係性を示す者。過去を継承する語り部もいれば、価値観を転覆させて革命を起こす反逆児もいる。縦につながる親子の関係とも、横につながる友人の関係とも違う、「斜めの関係」を結ぶ位置に、おばさんは立っている。*1

 「斜めの関係」、斜めから手を差し伸べるという所作を探り当てたことが、本書の一つの達成だろうと思う。わたくしもこれからしたり顔で援用していきたい概念ですわね。

 さて、本書がすくいとった「おばさん」の可能性に比して、「おじさん」という語のどうにも救いがたい感じが本書を読んでいるときどうも頭に浮かんできていた。一人称が「おじさん」のやつは自身の権力性を隠蔽しつつ誇示する最低のカスだと思うし、世にいう「おじさん構文」の気色悪さったらない。「おじさん」をスキップして「おじいさん」になりたいという欲望を吐露するTwitterの知り合いもいたりするが、それは本書で指摘される「かわいいおばあちゃん」への願望と相似形だよなと思う。概して、「おじさん」を引き受けたおじさんって居直りと開き直りを正当化する醜悪なものとしか思えないので、わたくし自身はそれを積極的に引き受けて可能性を見出そうとは思えない。

 一方で、本書の「斜めの関係」から想起したおじさんは、歴史学者網野善彦だったりもした。それはたぶんほとんど唯一の簡便な網野論ともいえる中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』からの連想だろう。中沢の仕事と網野善彦の研究との親近性——かならずしも実証になじまない、でかい構図をぶちあげる景気のよさ(こう要約すると網野の仕事のある部分だけ強調するような感じもあるけど非プロパーなので許してほしい)―—なんかは、まさしく斜めの関係から受け継がれたものといっていい気がする。

 網野善彦の直接の教え子で研究者になったものはほとんどいないんじゃないかという気がする——それはたとえば東京大学の教授だった石母田正とかとの対比を念頭に置いているわけですけど——のだが、しかし網野善彦に影響を受けた歴史学者はごまんといるだろう。それも日本中世史という枠をはるかにこえて。ここにある種の「斜めの関係」の幸福な一形態をみたりした。

 話がそれた。ともかく、岡田育『我は、おばさん』、読むといいですよ。

 

 

 

 

*1:p.212