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痕跡と忘却────宮野真生子、磯野真穂『急に具合が悪くなる』感想

急に具合が悪くなる

 濱口竜介監督が映画化するというので、宮野真生子、磯野真穂『急に具合が悪くなる』を読んだのだった。

 本書は、がんに罹って医者に「急に具合が悪くなるかもしれない」と告げられた哲学者・宮野真生子と、イベントで知り合った人類学者・磯野真穂とが交わした往復書簡を書籍化したもの。往復書簡が進む中で、宮野は現実に「急に具合が悪くな」っていき、本書刊行時、2019年9月にはすでに亡くなっている。

 二人のあいだで交わされる対話は、がんにかかるということ、がん患者として在ることなどをとっかかりとして、哲学、人類学の知見からの考察が散りばめられていて、知的好奇心が喚起される。がん患者として医師、医療とどう向き合ってきたのか、どう向き合うべきか。出会いの偶然性、徒歩旅行と輸送。

 一方で、だんだんと具合が悪くなっていく人の書く文章を読んでいくのは結構精神的にしんどくて、これはわたくしもこの一年具合を悪くしてよくなるかどうかもよくわからん状態で宙づりにされているからかもしれんが、読んでいてかなりつらい気分になったのは事実である。

 宮野は亡くなったが、本書やほかの著作が確固たる痕跡として世界に残る。だが自分が亡くなったときはそうではないだろう。しかし、なにも残らなくても、残せなくても「よい」のだと語ってくれたことに、芥見下々『呪術廻戦』の結部のえらさはあると思うのだが、このように鮮烈に刻まれた痕跡と死を目にすると、それも結構揺らいでくるようなところもある。

 ハンナ・アレントは『人間の条件』のなかで善行と忘却について書いていて、おそらく我々のほとんどの営為を救いうるのはこの信仰なのかもということを思った。

「善行が公然と姿を現す時には、組織的な隣人愛や連帯のための行為としては有用かもしれないが、それはもはや善行ではない。」p.109
「善が存在しうるのは、誰にも知られないとき、本人でさえ気づかない場合だけである。」p.109

「善行は、行われた途端に忘れられなければならない。記憶ですら、善行の「善」たる性質を破壊してしまうからである。思考なら、記憶されて思想へと結晶することができる。」p.111

「善行はただちに忘れ去られなければならないので、世界の一部になることはできない。それは行われては消え、何の痕跡も残さない。善行は、まさしくこの世のものではないのである。」p.112

 

 この対話がどのようなかたちで映画になるのかあまり想像できないところもあるが、それも含めて楽しみに待ちます。