
『急に具合が悪くなる』をみたので感想。濱口竜介監督の新作がみられること、うれしいのだった。
パリの介護施設、「自由の庭」でディレクター(施設長)を務めるマリー=ルー(ビルジニー・エフィラ)は、よりよい介護を追求して施設の改革に努めているが、必ずしもうまくいっておらず、ベテラン職員との確執もあり日々に倦んでいた。そんななか、偶然知り合った演出家の真理(岡本多緒)に誘われた、彼女が演出を務める演劇をみにいったマリー=ルーは、精神病院の改革を進めたフランコ・バザーリアを主役にしたその芝居に大きく心揺さぶられる。劇後の質疑応答で、真理は自身ががんのステージ4にあること、「急に具合が悪くなる」かもしれないと医師に告げられていることを語る。なにか通じるものを感じた二人は、パリの街中を歩きながら、そして「自由の庭」で、夜通し語り合う。
濱口竜介監督の新作は、パリの老人介護施設を舞台に、二人の女性の魂の交差を描く。原作は哲学者、宮野真生子と人類学者、磯野真穂による往復書簡を書籍化した同名書籍。マリー=ルーや真理のバックボーンは磯野と宮野を想起させるところもあるが、それぞれ介護施設のディレクターと演劇の演出家という職業人としてのペルソナが強調されるので、実在の人物をモデルにしている感じは薄い。書籍のなかでは二人の対話は「病になること/であること」をひとつのとっかかりにして、医療や死生観に分け入っていたが、映画化にあたってそのあたりの対話が再現されているわけではなく、マリー=ルーと真理の問題意識が前景化し、そしてその対話が現実世界にも影響を与えていく。
対話の大きな主題としては、介護の技法であるユマニチュードと、マルクス主義を経由したエコロジー論があり、それぞれマリー=ルーと真理が議論のイニシアチブを担い対話が進行していく。認知症の患者の尊厳を根幹とするユマニチュードは、実際に看護の現場のなかに真理を引き入れつつ実地で説明がなされ、さながら本作(の一部分)はユマニチュード入門といってもいいのではという感じもする。一方、真理の語る、「いま/ここ」のためにひたすらに外部を食いつぶしていくものとしての資本主義ないし現代世界を語るレクチャーは思弁的。この次元の違う主題系がすれ違わずに交錯していくところに、この映画の対話のおもしろみはある。
資本主義による収奪のシステムこそがデモクラシーの基盤で、ある種の理想としてのデモクラシーはそうした苦痛を生み出さずにはおられないのではないか、という真理の議論に対して、ユマニチュードの導入を軸にした改革が実際には施設の職員を疲弊させていく機制があるのではないかと感じたマリー=ルーが、その議論に何か含みはあるか、と尋ねる場面で、二人の対話の緊張感は一気に高まる。たとえば『ハッピーアワー』のいくつかの場面や、『寝ても覚めても』の演劇論の場面のように、抜き差しならない負荷が生じる可能性もあっただろうが、この『急に具合が悪くなる』では真理がすかさず「含みはない」と言い切り、高まった緊張は一気に緩和される。
劇中ではマリー=ルーと反ユマニチュード的なベテラン看護師のあいだの雰囲気は『ハッピーアワー』・『寝ても覚めても』並みに気まずいのだが、それも対話を経由して結部ではベテラン看護師が制服を脱いでいることで和解(と説得が功を奏したらしいこと)が示唆され、微温的な着地をみせる。
長塚京三の一人芝居(あるいは不意のコラボレーションを意図してもいるので一人芝居とはいえないかもしれないが)である劇中劇は『ドライブ・マイ・カー』ないし『親密さ』を想起させるし、夜通し語りながら歩くマリー=ルーと真理の姿は、明け方までぼつぼつ話しながら歩いた『親密さ』の記憶を喚起するし、自身のフィルモグラフィの反復・変奏という意味では『ドライブ・マイ・カー』と通じるものがあるかもしれない。しかし、わたくしが『ドライブ・マイ・カー』に感じた「ベスト盤」っぽさはこの『急に具合が悪くなる』には希薄という気がして、過去のフィルモグラフィを参照しながらも明白に新しい映画になっていると感じる。
それはさながら、劇中で真理がいう、「不可能な道」を探りながら歩いているような感触でもあり、この映画の物語自体が、時に大きく飛躍を重ね、予想もしない方向に進んでいく。「急に具合が悪くなる」事態に直面した真理に付き添う形でマリー=ルーは日本に渡り、彼女の家で同じ時を過ごす。互いに「あなたのことを何も知らない」としばしば口にしながら、それでも互いに魂のある部分を預けていく二人の姿は、原作の往復書簡からたちのぼる雰囲気そのものでもある。その表出としてのマッサージの場面────そしてそれが反復されるクライマックスの演劇の場面はこの映画のもっとも美しい瞬間であることに疑いはないだろう。
そしてマリー=ルーは真理に、自身の介護施設で最期の時を過ごさないかと誘う。「選べない」と答える真理だったが、次の場面では軽やかに「自由の庭」のレジデンス・アーティストとして招かれている。この飛躍には素朴に驚かされ、こうして予定調和を軽々と超えていくことが映画のおもしろみなのだということを改めて教えられた気がした。
この映画は死、あるいは老いという主題を扱いながらも、務めて明るい。主要な舞台である「自由の庭」という施設自体も、照明の工夫の結果だろうが、物理的に明るくみえるし、クライマックスで一人芝居の舞台となる中庭に差す陽はやわらかで印象的である。飛躍を重ねて希望の道を探っていくこの映画のまとう明るさが、わたくしはとても好きなのであった。
