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世界を終わらせた男────『オッペンハイマー』感想

オッペンハイマー クリストファー・ノーランの映画制作現場

 クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』をみました。以下、感想。

 「原爆の父」として知られる、J・ロバート・オッペンハイマー第二次世界大戦期にロスアラモス研究所のトップとしてマンハッタン計画、すなわち原子爆弾の開発にかかわった彼は、戦後、水爆の開発推進に否定的だったことから、その過去を探られ、聴聞会で追及を受けるに至っていた。どうもそれを裏で糸を引くのは、オッペンハイマーと因縁を持つ原子力委員会の委員長、ルイス・ストローズであるようなのだが…。

 現代で最も注目を集める映画監督の一人、クリストファー・ノーランの最新作は、原子爆弾開発の立役者を取り上げた伝記映画。『メメント』で記憶が10分しか保たない男の冒険を時間軸を錯綜させて描き、また近作『TENET』でも時間を逆行するサスペンスを描いた監督が、オーソドックスに編年的な伝記映画を撮ろうはずもなく、この『オッペンハイマー』も相当エキセントリックな構成になっている。

 戦後、聴聞会で追及されるオッペンハイマーのパートと、戦前、ヨーロッパ留学を経て量子力学の第一人者としてアメリカに帰還、マンハッタン計画にかかわってゆくパート、そして聴聞会後、オッペンハイマーを攻撃するため策謀をめぐらしていたストローズが公聴会で追及される立場になるパートのおおむね3つの系列が同時並行的に進行する。さらにカラーのパートとモノクロのパートが混在し、それがどうも過去=モノクロ、現在=カラーのようなありふれた使い分けではなく、オッペンハイマーに寄り添っているパートがカラー、ストローズの側に拠っているとモノクロで表現され、同じ場面でもオッペンハイマー側とストローズ側でそれぞれ表象されていく。

 わたくしはこのことを河野真太郎によるイントロダクションによって知ったうえで鑑賞したのだが、これを事前に知っていたことはかなり理解の助けになった気がする。そのほか、藤永茂による伝記『ロバート・オッペンハイマー――愚者としての科学者』を事前に読んでいて、オッペンハイマーと周辺人物はなんとなく頭に入れていたのだけれど、科学史上の人物たちをそれほど理解していなくても鑑賞の妨げにはならないような気もした。登場人物の出入りが激しくて、半端に知っていることがそんなにアドバンテージにならないということもあるし、重要人物は俳優の力で印象に残るようになっているので(ケネス・ブラナーやレミ・マレックは映っている時間は少ないがさすがの存在感!)。一方で、第二次世界大戦期から冷戦期についての一般的な常識がないと物語を追うことにかなり強い困難が生じる気はした。

 3つの系列のストーリーが同時並行することは先に述べたが、これは同じ状況を異なる3つの立場から描き、かつまったく異なる速度で流れる時間を同時並行で映し出した『ダンケルク』と相似形。『オッペンハイマー』は『ダンケルク』の手法を伝記映画に適用する実験であるような気もして、それは見事に成功を収めている。異なる時間をどうコントロールしたかというと、それはルドウィグ・ゴランソンによる重厚な劇伴を中心とする音響による力業であった。

 劇場の大音響が複数の時間を貫通することである種の統一性を生み出していて、時に点火のカウントダウンのような調子を帯びながら、ほとんど絶え間なく鳴り響いている音楽が、決定的な場面────その一つはいうまでもなく、一つのクライマックスである原爆実験の場面である────では一気に後退し、そのあとに訪れるまさに破局的な爆発音を強調してもいる。ときに呪縛のようにフラッシュバックする、喝采の足踏みなども強い印象を残す。この映画は明らかに音響の映画なのだ。

 ドラマの次元においてもノーランの過去のフィルモグラフィを想起させるモチーフがある。オッペンハイマーとストローズの対立は、ストローズの目線から眺めるとき、ある種の復讐劇のような調子を帯びる。科学者オッペンハイマーと、政治を生業とするストローズ。この「男の戦い」は『プレステージ』で描かれたマジシャン同士の対決をどことなく想起した。手練手管を駆使して「裁判ではない」場を整え、その名声を傷つけ公職から追放し、勝利を得たかに思えたストローズであったが、その後、自身もまた「裁判ではない場」で攻撃されることになり、そこに科学者たちを意のままに操るオッペンハイマーの陰謀があるに違いないと取り乱す。

 しかし我々が知ることになるのは、オッペンハイマーはそうした世俗の政治の次元にもはや興味を持つことがかなわないほどの衝撃をすでに受けており、そこで彼の物語は決定的な終結を迎えていたということ。聴聞会の席で、自身と対立し陥れたかつての同僚とすら握手を交わし、そのことを知った妻が憤激する場面が象徴的だが、戦後のオッペンハイマーは基本的には状況に流されているようにしかみえない。

 そうした彼の態度の理由が、アインシュタインとの会話を通して明らかになることで、この映画も終わりを迎える。原子爆弾は大気を発火させて世界を燃やし尽くすことはなかったが、しかし人類自身による世界終末の可能性をひらくことで、世界を決定的に終わらせてしまった────そしてその罪責は、もはや現実の政治のなかで裁きうる次元のものではない。現実の政治をめぐる「男の戦い」はその成立の根拠すら奪い去られていたのだ。『TENET』で世界の破局を食い止める名無しの男を描いた監督が、「すでに破局を迎えたもの」としてこの世界を表象したわけで、これは次回作ではまさに世界の黄昏をどう引き受けるか、ということが賭け金になってくるのではないでしょうか!

 

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この映画について、広島・長崎の表象をめぐってさまざまな発話がなされ、これからもなされていくでしょうが、そうした言説の編成のなかで、日本列島の住民が犠牲者としてのアイデンティティのみを肥え太らせていくことをわたくしは強く危惧していて、だから上の文章ではそのことについてあえて触れなかったのだが、しかしこのアメリカ合衆国の作家による核時代の表象をどのように引き受け、どのように応答するかみたいなことは、クリティカルな課題としてあるんじゃないでしょうか。