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『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』 現代の、絶望的「ビューティフル・ドリーマー」

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 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』を鑑賞。ネット上での反響に違わず、とんでもない映画だった。まず、息をつかせぬ展開、アクションの連続。狂気を孕んだ絢爛な演出。そしてなによりストーリーも申し分ない。押井守監督の傑作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の正当後継にして、なおかつそれが提起した問いに、現代的かつシニカルな回答を与えたという点で、まさしく現代社会を生きる我々が、見る価値のある映画である、と強く感じた。

 正直、一回の視聴で全体を掴めたとは言い難いが、自分の初見の感想を書き残しておきたいと思うので、以下でストーリーについて、勢いに任せて書き留めておきたい。ネタバレ全開なので、未視聴の方は留意されたし。

 『ビューティフル・ドリーマー』とのオーバーラップ

 おそらく、多くの方が指摘していることだと思うが、本作の序盤から中盤にかけての展開は、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と大変酷似している。

 『ビューティフル・ドリーマー』では、学園祭の前日が延々と繰り返された後、主要人物の身内以外が消失した、終わりなき異常な「日常」が反復されるわけだが、本作では、魔法少女たちのありえなかった「日常」が反復される。それぞれ、その「日常」の不自然さに勘付いた登場人物が行動を起こすことによって、物語が進展する。

 

 ありえないが同時にある種理想的でもある異常な「日常」に、どのように相対するのか。この状況に対して、それぞれの登場人物が出した答えは不自然な「日常」の否定という点においては共通しているものの、その選択の質は全く異なるものであった。ここでの選択の質の差は、まさにそれが作られた時代の状況の差である。同時に、『[新編] 叛逆の物語』の真髄が現代の映画である所以が凝縮されているといえる。

 

 『ビューティフル・ドリーマー』において、主人公諸星あたるは、夢の世界を否定する。それは何故か。夢の中の不自然な「日常」は、あたるの願望が完全には充足されないからである。故に、自分の欲望が完全に充足される現実を求め、さらなる「終わりなき日常」へと歩を進めるのである。しかし、その「日常」すら、夢か現かは曖昧なまま、映画は幕を閉じる。

 この選択の意味するところは、夢か現かなどどうでもよく、快楽こそが現実であるという、極めて楽天的な姿勢である。1980年代を実際に生きたわけではない自分が言うのははばかられるが、80年代は、記号の差異の戯れに特徴付けられる、いわゆる「記号的消費」の時代であると言われる。加えて浅田彰などのニューアカデミズムの流行に代表されるよう、どことなく軽薄な空気が流れていた時代だったのではないだろうか。

 浅田の著書『逃走論』では、資本主義的な偏執から逃げ続ける「スキゾ・キッズ」なる生き方が、新たな時代を生きる人間の在り方として提示されている。「逃げる」ことが肯定的に捉えられる時代だからこそ、『ビューティフル・ドリーマー』は可能になったのだ。あたるの選択は、まさしく時代の空気を写したものだったのである。

 

暁美ほむらの選択の必然性

 一方、『[新編] 叛逆の物語』においては、暁美ほむらは「夢」で「日常」を生きることを否定する。否定した先にあるのは、『ビューティフル・ドリーマー』のようなさらなる快楽ではない。なんの救いもない、絶望的な「現実」こそが、「夢」を否定した先にあるのである。夢か現かはわからないような曖昧さはそこにはない。「夢」から醒めた先には、圧倒的な「現実」こそが待ち構えている。それでもなお、地獄へと足を向けることを選ぶ。この選択の理由は、暁美ほむらの究極的に個人的な感情である。それと同時に、それこそが現代社会を生きる人々に唯一生き方だからこそ、そうせざるを得なかったのではないだろうか。

 現代社会において、典型的なライフコースは事実上消滅し、各々が「自己責任の論理」に従って社会と相対せざるを得ない。なまじセーフティーネットがある程度は整備されているから、多少の挫折でリタイアすることは許されない。何度でも立ち上がって戦い続けること、それが強制されている。

 そんな現代社会において、心地良い「夢」を見続けることは不可能だ。そんな選択肢は、現代社会においてなんのリアリティもない。故に、暁美ほむらはその先が「地獄」であろうと夢から醒めるしかなかった。圧倒的な現実に立ち向かわなけならぬ、そんな我々の状況こそ、彼女をこの選択に至らしめたのではないか。

 

『[新編] 叛逆の物語』の真髄

 さて、長々と『ビューティフル・ドリーマー』との対比から本作を語ってきた。この差異は、本作の立ち位置を図る上で有効な指針の一つであると思う。しかし、この「夢から醒める」選択の先にある暁美ほむらの「叛逆」こそ、本作の傑作たる所以の、決定的な部分だとは思うのだが、どうにもまだ消化しきれていないというのが正直なところである。

 「愛」という言葉で言い換えられることによって、究極的に正当化され強化されたエゴイズム。それによって駆動する悪魔が、秩序を破壊し混沌をもたらしたように、自分には思えた。この選択の意味とは、いかなるものなのか。また映画館が空いてきたら見に行って、自分なりの答えを見つけたい。

 

 感想その2

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』における「叛逆」とは何か? - 宇宙、日本、練馬

 

 

 

 

 

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