宇宙、日本、練馬

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それでも公平性を求めるために―『それでもボクはやってない』 感想

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 先日劇場で周防正行監督の『舞妓はレディ』をみたんですね。

『舞妓はレディ』 成長と、舞妓という文化と - 宇宙、日本、練馬

 それで周防監督の作品を見直したいなと思い立ったので、『それでもボクはやってない』と『Shall we ダンス?』をレンタルしてきました。どちらもかなり前に見たっきりだったので、新鮮な気持ちで見直せるかなと。というわけで『それでもボクはやってない』をまず見たので、その感想を。

 薄氷を踏むかのごときバランス感覚とリアリティ

 痴漢の疑いをかけられて逮捕、起訴されてしまった加瀬亮演じる主人公、金子徹平が、その疑惑を晴らすための彼と支援者たちの闘いを描く本作は、2007年に日本アカデミー賞をはじめとする様々な映画賞にノミネートされるなど、高い評価を得ている。以前に見たときもたしかに「面白い」とは感じたのんですけど、むしろ「つらい」という感情の方が強かった。つらすぎてもう見るまいとまで思ったほどで。

 でも改めて見直してみると、もちろんとても「つらい」のだけれども、状況説明の巧みさ、スリリングな法廷劇の展開、そしてなにより真実の可塑性というテーマを崩さぬための丁寧な描写が、とんでもなくすごいと思った。前回みたときは、主人公に感情移入しすぎていて、そこらへんにあんまり目がいかなかったから「つらい」という感情ばかり頭に残ったのかもしれないなあと。それも主人公に寄り添った展開と救いのない結末、主に留置されている過程での人権抑圧っぷりの描写を考えると「正しい」反応なのかもしれませんが。

 

構成される真実と公平性

 この作品のテーマとかについては僕が書くまでもなく書きつくされていると思うんですが、まあせっかくなので思いついたことを書き留めておこうと思います。本作の社会的な次元でのテーマというか主張は、痴漢冤罪事件を通して、日本の刑事裁判の問題点の指摘すること。それは主人公を弁護する荒川(役所広司)の台詞にも直接的に表現されている。

痴漢冤罪事件にはね、日本の刑事裁判の問題点がはっきりと表れているんだ。

 この主張の射程は、日本に固有の社会的な次元にある。「日本の刑事裁判」とあえて荒川に明言されている点からもそれは明らかだし、周防監督が行った丹念な調査のフィールドも、おそらくは日本国内であったろう。現実に密着した「社会派映画」を撮ろうとするなら、むしろ限られた範囲の、限られた事柄に関することこそが、主張の核心になってしかるべしとも思う。

 しかしその射程を超えた、より抽象的かつ普遍的なテーマをも、本作は提起してるんじゃないか。それは判決を聞く主人公の独白に端的に示されている。

 「真実は神のみぞ知る」と言った裁判官がいるそうだが、それは違う。少なくとも僕は、自分が犯人でないという真実を知っている。ならばこの裁判で本当に裁くことができる人間は僕しかいない。少なくとも僕は、裁判官を裁くことができる。あなたは間違いを犯した。僕は絶対に無実なのだから。

 僕は初めて理解した。裁判は、真実を明らかにする場所ではない。裁判は被告人が有罪であるか無罪であるかを、集められた証拠で、とりあえず判断する場所に過ぎないのだ

  「裁判は、真実を明らかにする場所ではない」というひとつの確信。この確信を主人公が得る、ただそれだけのために、このひとつの「真実」をこそ主人公に語らせるために、長い長い主人公とその支援者たちの闘いを描いたんじゃなかろうか。

 真実は、それぞれの人間の心のなかにしかない。そのことを示すために、映画は決定的瞬間をカメラに収めることはない。結局のところ、「ボクはやっていないのか」どうか、それは藪の中というわけだ。そのように跡付けようと思えば、いくらでも主人公を有罪とみなせるほどに、その描写は徹底している。こんな記事もあるくらいだ。

児ポ法規制反対派の断末魔が聞こえる 別館:映画 「それでもボクはやってない」 主人公有罪論

 主人公が有罪か否か、とはすこし次元が違う議論になるが、この映画の結末、裁判官の判断をめぐる司法関係者の発言も面白い。

日本裁判官ネットワーク (オピニオン→例会報告・映画「それでもボクはやってない」を巡って )

 ある裁判官はこのように語る。

映画による批判に対して,反発とまでは行かないにしても,いくつかの点でいささか受け入れがたいとの思いを抱いたことも事実であります。 まず,最初の疑問は,映画では,室山裁判官は,有罪の結論を出しましたが,果たして,日本の大方の刑事裁判官は,同じような結論をだすだろうかという点であります

 あの映画の証拠関係を見ますと,被害女性の高校生の証言がほぼ決定的な証拠でありますが,その証言内容自体に,小さくない欠陥があります。すなわち,掴んだとされる犯人の手を一端離しているという点です。犯人の手と被告人徹平の手が同じだとする点に疑問を入れる余地がなかったか,誤認の可能性がなかったかという点です。その他に,近くにいた女性の「徹平は犯人ではない」とするかの如き証言もあり,検証結果も一定の疑問を投げかけています。そして,何よりも,徹平自身が,捜査段階から一貫して否認しております。これだけの疑問がそろえば,普通の裁判官でも,疑わしきは被告人に利益にという観点から,無罪を言い渡すのではないかと感じます。あの映画の警察官らさえ,有罪となるか疑問としていたくらいですから,有罪認定した室山裁判官は,現場では,少数派ではないかと思います。

  裁判官が劇中の判断に疑義を呈する一方、逆の立場である弁護士はそれに反論する。

 只,伊東さん(筆者注、前に引用した発言をした裁判官)は,あの映画の事件で日本の裁判官のほとんどが無罪を書くとおっしゃいましたが,とんでもないことです(笑),冗談ではない。日本の裁判所はそんな裁判所ではない。ここに来ておられる人はそうではないと思いますが。日本の刑事裁判官に必要とされるものは何かと言えば,有罪を書く起案力だと思うんですよ。有罪を書く証拠は,つまみ食いをすれば,いくらでもあると思うのです。でも,それをするかどうかが大問題なわけです。

(中略)

映画では,「10人の真犯人を逃すとも,一人の無辜を罰することなかれ」という言葉が出ていますよね。日本の裁判官は逆だと思うのです。「1人の有実の人でも逃さないためには,10人の無辜の人を罰することになっても仕方がない」と。ちょっと言い過ぎだと思いますが,少なくとも,絶対に被告人には騙されないと思ってやっているのが,日本の裁判官だと思うんです。

 このように見事に異なる反応を引き出しているという点で、『それでもボクはやってない』の描写は成功を収めていると思うし、それが「裁判所はさしあたっての判断をする場所」でしかない、というテーマを浮き彫りにしている。

 

 そうした真理が暴きだされてなお、主人公はさらなる真実をめぐる闘争への一歩を踏み出す。それこそが、さしあたっての判断しかなされない場である裁判の場で、公平性を希求するための唯一の方途であるとの、力強い主張じゃなかろうか。

 先に「主人公有罪論」のエントリのリンクを張ったが、それは下種の勘繰り以上のものではないんじゃないかと僕は思う。主人公が真実として「やっていない」のでなければ、このラストの判断の意味は失われてしまう。それが多分に心情倫理的判断だとしても。そうでなければ、自身の心のなかにしか存在しない「真実」に全実存を賭す主人公の決断は無意味化する。その点で、主人公有罪論は、面白い読みの提示ではあっても、この作品の美しさを決定的に損なうという点で、無粋な試みというほかない。裁判官の判断の是非はともかく、主人公が無罪か有罪かという次元での議論はあんまり生産的じゃないんじゃないか。

 結末でさらなる闘いへと命がけの決断で以て飛び込んだ主人公ではあるが、不完全な制度のなかで、それでも闘うことの意味あるのか。それは語られないし、語ることはできないことだろう。なぜなら、おそらく、それは我々に賭けられているのだから。真実を希求する闘いが、が闘うことの意味を失わないためにも、我々ひとりひとりの日常こそが問題になる。それが、一見救いのないこの結末の意味するところ、なんじゃないかと思いました。この結末を救いのないものとするか、自由に開かれたものとするか。それこそが周防監督が突き付けた問題に他ならない。そんなことを考えたりしました。

 

【作品情報】

‣2007年/日本

‣監督:周防正行

‣脚本:周防正行

‣出演

 読みたかったが未読の論文。

CiNii 論文 -  刑事裁判における「過去」と現在主義--映画「それでもボクはやってない」を素材に

 

 

 

 

それでもボクはやってない―日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!

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