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「持たざる者」の物語としての「クドリャフカの順番」――アニメ『氷菓』感想

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 文化の日も終わって、文化祭の季節ももう終わりが見えてきた感じでしょうか。僕の周りの大学は学祭も終わってすっかり通常営業しているようです。文化祭をノリノリで楽しむようなメンタリティは失って久しいんですけれども、遠く離れてしまった友人と再会する機会を得たので、それは本当に良かったです。その友人と、アニメ『氷菓』の「クドリャフカの順番」編を見返したりもして。せっかくなので感想を書き留めておこうと思います。

 「持たざる者」と「期待」

 「クドリャフカの順番」から物語を取り出すならば、「持たざる者」が「期待」をかける物語、といえるんじゃないだろうか。ここでいう「持たざる者」とは、漫画研究会の河内亜也子、総務委員長の田名辺治朗、そして福部里志。彼・彼女らが、それぞれ別の人物に「期待」を託す。その「期待」もまた、作中で強烈な意味を付与されて用いられる。

 里志を勝手にライバル視して闘志を燃やしていた谷惟之の「期待していたんだがなあ」という言葉かけに里志は猛反発する。

「どうも彼はね、期待って言葉を軽々しく使いすぎる」

「自分に自信があるときは、期待なんて言葉を出しちゃいけない。期待っていうのは、あきらめから出る言葉なんだよ。そうせざるを得ない、どうしようもなさがないと、空々しいよ」

  原作『クドリャフカの順番』では、里志はトラファルガーの海戦におけるネルソン提督なんかを引き合いに出したりしつつ、なかなかレトリックを駆使して弄してこのニュアンスを摩耶花に伝えようとわけなんですが、アニメではそのレトリックがごっそり削られて、やや食い気味、独白するような調子で上の台詞を吐く。

 谷は、少なくとも里志にとっては、ナイーブにも「持てる者」になれると思いこんでいる哀れなピエロなんだろう。自分と同様に「持たざる者」であるにも関わらず。その無神経さが腹立たしくてしかたないけれども、しかし「似非粋人」たる里志は「国語が苦手な人」と形容することで精一杯その意味内容を隠蔽する。自分が「期待」という言葉に込める特有の意味を共有していないからといって、「国語が苦手」呼ばわりするのもひどい話だ。しかし里志にとってそれは、「持たざる者」たちが自明のものとして持つべき一つの矜持なのかもしれない。

 総務委員長の田名辺もまた、「持たざる者」のひとりとして「期待」を語る。その時の語調も、原作の文から想起されるよりより感情的になっており、「持たざる者」たちの屈折がより先鋭化している。

「絶望的な差からは、期待が生まれる。僕はずっと期待していた」

 絶望的な差からは、期待が生まれる。奇しくも田名辺と同じく失われた「クドリャフカの順番」に関わる漫研の河内も、このようにして「期待」を抱くにいたった一人だ。摩耶花との対立を通じて、見ないことにしていた、その「絶望的な差」にどうしようもなく向き合わされる。3人の「持たざる者」たちの、三者三様の「期待」にまつわるドラマ。その期待の顛末もまた三者三様であるにも関わらず、「持たざる者」たちの帰結は驚くほど似ている。

 

「持たざる者」は、傷つくしかない

 里志に「期待」を託された奉太郎は、見事にそれに添う形で十文字事件を解決に導く。しかしそれは里志を満足させはしない。「折木に勝ちたかった」のかと摩耶花に問われた里志はこう切り返す。

「勝ちたいわけじゃなかったけど、見上げてばかりじゃね。こればっかりは摩耶花にはわからないだろうね」

 「勝ちたいわけじゃなかった」のは、決して嘘なんかじゃないだろう。己が「持たざる者」であることを誰より強く意識する里志にとって、それは間違いなく自身の心情だったはずだ。ちなみに原作では、「勝ちたいわけじゃなかった」とは言わずに口を濁す。アニメ版で改められたこのセリフには、しかし「持たざる者」としての福部里志の屈折を過不足なく表現している気がして、中々えげつなくて素晴らしい改変だと僕は思うわけです。

 でもやっぱり、「勝ちたいわけじゃなかった」けどもどこかで、それを覆したいという欲望も間違いなくあった。あったに違いない。それがなければ、十文字事件の犯人をあんなに熱心に探すわけがない。奉太郎への「期待」が成就することは、自身の欲望が挫かれることでもあるという自縄自縛のような状況に里志は置かれている。そして「期待」の成就を経て、自身は逃れようもなく「持たざる者」であるという事実を突き付けられた里志は、自戒を込めてこうつぶやくわけだ。

「データベースは、結論を出せないんだ」

 序盤から里志が自身を象徴するフレーズとして何度も口にする「データベースは結論を出せないんだ」という言葉に込められていた、どうしようもない諦観。里志のこのニヒリズムが、のちのバレンタインデーでのどに刺さった小骨の如く影を落とす。その「手作りチョコレート事件」でひとまず決着をみたかに思えるそれは、その後の里志の人生の端々で顔を出すんじゃねーかとも思うわけですよ、やっぱり。

 話が横道に逸れた気もするんですが、里志にとって「期待」は、成就することで自身を深く切りいてしまうようなものだった。悲しいことに。

 

 それでは、「期待」が成就しなければ、「持たざる者」は傷つかないのか。それが端的に言って誤りであることを示しているのが、田名辺の「期待」をめぐるドラマだろう。彼が陸山宗芳にかけた「期待」は、しかし無残にはずれることになる。傑作をものにすると確信していた陸山が、原作を読みもしていないという事実。自身の願いに気づいている風ながら、それを受け流しさえする。

 原作では、その「行きつく先は失望だ」と明言するものの、アニメではそうは語られない。しかし、ひたすら、田名辺が「期待」の内実と、それが果されないことへの苛立ちとも悲しみともつかない感情を吐き出す様は、その失望を十二分に伝えているんじゃなかろうか。「期待」は、たとえ果たされなかったとしても人を傷つける。これは、「絶望的な差」から「期待」が生まれた時点で必然と言えるのかもしれない。事実、漫研の河内は「期待」を口に出さないためにそれを心の奥底に封じ込めたにも関わらず、不意にそれと向き合わされて取り乱すことになったのだから。

 

 「期待」が成就した里志も、しなかった田名辺も、それを封じ込めた河内すらも、みなそれぞれ傷つき苦しんだ。「青春は、優しいだけじゃない。痛い、だけでもない。」というアニメ版のキャッチコピーは、この「クドリャフカの順番」編に、さらに言えばこの3人の「持たざる者」たちに捧げられているといっても過言じゃないんじゃなかろうか。傷つき、苦しんでも、彼・彼女らは進まなければならない。時は過ぎるし、日々のよしなしごとは彼、彼女らに降りかかるだろう。そのとめどなく流れる時間こそが、青春の本質なんじゃなかろうか。そんなことを考えたりしたのでした。

 

 この「持たざる者」たちと、「持てる者」とがどうしようもなく交錯するのが学校という場の魅力でもあり、無論『氷菓』の魅力でもあると思うんですが、それはまたの機会に。本当はこの記事で「クドリャフカの順番」編における摩耶花の魅力について書こうと思ったんですが、それに辿りつきませんでしたね、なぜだか。明日にでも書こうと思います。

追記

書きました。

関連

「持てる者/持たざる者」という軸は、今だったら「特別/普通」と言い換えるかな、とちょっと思ったりしています。

 

いままで書いた『氷菓』関連記事のまとめ。

amberfeb.hatenablog.com

 

 

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