宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

ゲームのなかの「揺らぎ」――『おおきく振りかぶって 〜夏の大会編〜』感想

おおきく振りかぶって ~夏の大会編~ 7 【完全生産限定版】 [DVD]

 

 Amazonプライムビデオで『おおきく振りかぶって 〜夏の大会編〜』をみました。いやーよかったです。季節柄、エモーショナル2倍マシくらいの感覚があったのでタイミング的にもよかったのかなと。以下感想。

  1年生しかいない新設チームで夏の大会に臨んだ西浦高校は、初戦、昨年度の優勝校桐青高校に勝利した。西浦高校野球部の夏は続いていく。彼らが敗北する、その瞬間まで。

 私たちは桐青高校と西浦高校との死闘を知っている。その差が紙一重で、勝者と敗者の立ち位置が最後の一瞬まで入れ替え可能だったことを。その桐青高校を「負け犬」よばわりする見知らぬ男が不穏に登場する、第1話のアバンタイトル。桐青高校の控え捕手仲沢利央の兄にして、美丞大狭山高校野球部のコーチであるその男、仲沢呂佳の強烈な存在感が、西浦高校野球部の行く末を、ひいてはこの「夏の大会編」のクライマックスを予告する。そしてこの男の目線こそ、「夏の大会編」における西浦高校野球部、ひいてはエース三橋廉の立ち位置が決定的に変化したことを象徴するものでもある。

 桐青戦、西浦高校は徹底的に「視る」側に立っていて、それが地力ではおそらく圧倒的な優位にある桐青高校と西浦高校が、互角以上に渡り合えた最大の要因だった。新設チームで情報皆無な西浦に対し、強豪である桐青は豊富な試合経験があり、それが選手の、チームの実力を構成している反面、それは無数の痕跡を残していることもまた意味する。その痕跡=データを「視る」ことができた、その情報の非対称性において西浦高校は桐青に対して優位にたつことができた。

 無論。「視る」ことだけではゲームに勝つことはできない。「視た」データそれ自体は正確で揺らぎはない、といいえる。だがプレーはどうしても正確というわけにはいかず、揺らぎを含みこまざるをえない。そのデータからはずれた無数の「揺らぎ」こそが、「データ」に基づく戦略・戦術を狂わせ、データを超えた展開をゲームに導きうるのだし、それが野球が「筋書きのないドラマ」たりうる所以であるとも思う。

 しかし、その「揺らぎ」がなかったなら、あるいは最小限であったのなら、「視る」ことによる優位を徹底的に活かされることになるだろう。その「揺らぎ」を最小限にとどめる能力を持たされたのが、主人公である三橋なのだ。三橋というエースの制球力によって、「揺らぎ」は考慮する必要がないものとなり、故に「視る」ことの優位はますます動かしがたいものとなる。驚異的なコントロールが、相手の弱点を突く配球をほぼ100パーセント可能にするからだ。三橋のコントロールは、『おおきく振りかぶって』という作品のなかにあって最もフィクショナルな能力であるといえると思うが、そのフィクションが最も効果的に機能しえたのは、その意味で桐青戦だったといっていい。

 しかし、桐青高校に勝利し注目を集めてしまった西浦高校は、もはや「視る」だけの存在ではいられない。「視る」と同時に「視られる」立場に立ったのだ、という事実を、1話のアバンの不穏さは雄弁に語っているといっていい。「視られる」ものになったことで、三橋の正確無比のコントロールは逆に弱点として機能してしまう。試合のなかで積み重ねられた配球の痕跡に基づく予測とあいまって、三橋のボールは打者にとってこれ以上なく予測可能性が高いものになってしまう。その機能によって大金星を掴むことができたフィクショナルな能力が、今度は一転首を締めるアキレス腱になってしまうという、この転換こそが「夏の大会編」の魅力だと僕は思った。

 そしてその予測可能性の高さを形作ってしまったのが、単に三橋のコントロールだけではなく、三橋と阿部の関係性にもある、という点が非常に巧妙で、その弱点の克服は、フィクショナルな能力の否定ではなく、おそらく二人の関係性の変化によって乗り越えられるのだろうという予感がある。捕手である阿部のリードだけでは配球の読みは容易かもしれないが、そこに三橋の意志が変数として介在するようになることによって、たぶん(美丞戦のようには)簡単に癖を読まれることはなくなるのではないか。

 これまでも、三橋のコントロールは「揺らぎ」がなくとも、バッテリーの関係性のなかでネガティブな「揺らぎ」は生じていた。阿部の怪我を避けたいあまりプレーに躊躇が生まれたりとか。その「揺らぎ」を最小限にとどめるために、阿部は捕手として様々な、なんというか拙いとも思える策を講じてきたわけだ。とはいえ、それでも阿部と三橋は互いの内心をびっくりするほど図り違えていたのだし、そもそも、試合中に積み重ねられる無数のモノローグ自体が、同じ場所、同じ時間を共に戦っているのにも関わらず、それぞれの内心には恐ろしいほどの懸隔がある、ということを伝えてもいた。ゲームを行うのは一つのチームである以前に多数の個人にすぎない、というあたりまえの事実を時折突き付ける。だからこそ、無数の声がある一点に集約される1期・2期それぞれのクライマックスに異様な熱量が感じられるわけだけれど。

 互いの内心はわからない。たとえ約20メートルのあいだで無数にボールをやりとりし、サインを交わしたとしても。だがわかろうとすることはできるし、自分の気持ちをどうにかして伝えようとすることもできる。それがうまくいくかはさておいて、2期の最後でようやく、このバッテリーは相手のことを知り、自分のことを伝えようとする、そういう場所に辿り着いたのかな、という気がする。それがポジティブな「揺らぎ」をゲームのなかに導いたとき、予想もできない一瞬がきっと訪れるのだろう。その予感が刻み付けられたラストが僕はとても好きです。

 

 1期から3年後に放映された「夏の大会編」ですが、野球周りのアクションは格段の進歩があったんじゃないかというような印象を受けました。1期と比べると「夏の大会編」は1試合あたりの尺が圧倒的に短いわけですが、素早いカット割りでぽんぽん飛ばしていって、かつモノローグも適宜挿入していく、という見せ方は緩急がきっちりしていてよかったなーと。動きもより自然になってた感じがし、特に美丞戦ははっとするような構図で打球を描いていたりと、大変満足いたしました、はい。

 

  1期の感想。


  文中で直接言及はしなかったのですが、感想を書くにあたって、Nag.@Nag_Nayさんの『おお振り』論に影響を受けました。ほんの微力ながら校正のお手伝いをさせていただき、一足先に読ませていただいたのですが、作品論であるにとどまらず、スポーツ論/スポーツ観戦論でもあり、『おおきく振りかぶって』という作品のみならずアニメ/スポーツを視る、という経験をアップデートする、そういう論考だったように思います。『おおきく振りかぶって』という作品に触れたことがある方は是非ともコミケに足を運んでくださればと思います。

 

 

 

おおきく振りかぶって(27) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(27) (アフタヌーンKC)

 

 

 

 

【作品情報】

‣2010年

‣監督:水島努

‣原作: ひぐちアサ

‣シリーズ構成・脚本:黒田洋介

‣キャラクターデザイン:吉田隆彦

美術監督渋谷幸弘

‣音楽:浜口史郎

‣アニメーション制作:A-1 Pictures