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映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

言葉なしに弔う――『茄子 スーツケースの渡り鳥』感想

茄子 スーツケースの渡り鳥

  『若おかみは小学生!』をみたので、高坂監督の『茄子 スーツケースの渡り鳥』を久しぶりに見返したのですが、やはり傑作ではないかと思います。Amazonプライムビデオで視聴できますので、未見の方はご覧になってください。季節もドンピシャですよ。以下感想。

  高速で流れ去る道路のイメージ。暗転。ベッドに横たわる男。息はない。やがて男の顔に白い布がかけられる。またひとり、このゲームから人が降りていく。それを知らず男らは走る。そして、それを知っても、なお。

 黒田硫黄の短編連作『茄子』中の一篇をアニメ化。先だってアニメ映画として制作・公開された『茄子 アンダルシアの夏』の、4年越しでの続編。舞台を日本、ジャパンカップサイクルロードレースに移し、ロードレーサーたちの悲哀と矜持を描く。

 『アンダルシアの夏』も、原作の描写を掘り下げディティールを補強していたが、この『スーツケースの渡り鳥』はさらに大胆に、アニメ独自の要素を加え、原作の精神性を保持しつつ、また違った印象を残す作品になっている。

 おおよそ、小説の実写化やら漫画のアニメ化など、他メディアへのアダプテーションは、原作への批評として読まれることを宿命づけられる。そしてこの『スーツケースの渡り鳥』もまた原作へのある種の批評として読むことができる。原作における謎に、アニメ独自の答えを出した、という意味において。

 その謎とは即ち、「朴念仁」と形容される寡黙な名選手、ザンコーニがレースを途中で放棄した理由であり、この答えは原作のどこにも明確に描き込まれてないがために、アニメ化に際し強烈な補助線が引かれなければならなかった。その補助線とはすなわち、ある名選手の自死であり、この補助線によって、作品の纏う雰囲気は原作と一線を画している、といっても過言ではなかろう。

 この補助線によって、唐突な他者の死に、いかに人間は向かい合うのか、という問いを登場人物たちに付きつけ、ある種の弔いの物語の色調を帯びる。それが「プロとはなにか/プロとしていかに生きるか」という『アンダルシアの夏』でも問われた主題と絶妙に響きあい、この『スーツケースの渡り鳥』という作品の主題系を成す。

 とはいえ、そうした他者への弔いという主題は、作品がまさにその人物の死で幕が開くにもかかわらず、それほど前景化するわけでもない。それは一つはサイクルロードレースそれ自体の強烈な魅力によって、極めて優れたスポーツアクションアニメとして成立しているがゆえに、あくまで死者をめぐる問いはその後景に退くからでもあり、そして何より、男たちの弔いは言葉なしに行われるからでもある。

 ここで、なぜザンコーニという圧倒的な実力をもつ男が、中途棄権という形でレースを終えなければならなかったかという、原作の謎への回答めいたものがさしあたって与えられることになる。自死という形で人生を中途で降りた戦友に捧げる勝利は、このような形での達成されざる勝利こそ相応しい。あのまぼろしの勝利の瞬間に差す光を、死者からの応答と読むのは牽強付会のそしりを免れないかもしれないが、あのゴールの瞬間に訪れた彼岸と此岸を超越した奇妙な時間は、無言の祈りが死者と邂逅したがゆえに、そうした雰囲気を纏いえたのではなかろうか。

 戦友の死にそうした勝利を捧げたザンコーニに対して、死者と同郷の友人同士であったチョッチは、彼とは違い、勝利を死者に手向けたりはしなかった。チョッチはザンコーニほど寡黙ではないが、死者への弔いについて、彼も多くは語らない。ただ、勝つために走り続けること、これからも死者とともに過ごした時間の厳しさの手触りを忘れず、プロであろうとすること。そうした無言の弔いによって、この弔いの物語は終わり、そして終わりのみえないプロの旅は続く。

 

 

 

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【作品情報】

‣2007年

‣監督:高坂希太郎

‣原作:黒田硫黄

‣脚本:高坂希太郎

 

作画監督吉田健一