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映画の時間は伸び縮みしない——『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』感想

劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 ノベライズ (ジャンプジェイブックスDIGITAL)

 『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』をみました。以下感想。

  夜の闇の中を疾走する列車。人を食らう鬼の陰謀。ここちよい夢の誘惑。そして予想だにしなかった恐るべき敵。

 吾峠呼世晴による漫画をTVアニメ化した『鬼滅の刃』の続編が、劇場アニメというフォーマットで語られる。テレビシリーズの美点は見事にスケールアップして継承されているといってよく、3DCGを大胆に用いつつ、異能をもつ剣士たちのアクションは劇場の大画面に写されてもまったく遜色ない。一夜の死闘を描く、という舞台設定も映画の尺にふさわしく、適切な切り取り方であったろうと推察する。

 そうした美点が継承されていることと同様、欠点もまたTVアニメと共通していて、しかも劇場という密室で、限定された時間のなかで作品と接することによって、その欠点はより目につくようになったと感じる。その欠点は漫画という形式が、(劇場)アニメという形式へと移される、アダプテーションの過程において生じたものだ。

  ufotableという制作会社の、「原作に忠実に」という方針によって必然的にもたらされている「批評性」のなさについて、上の記事で書いた。そのタイミングではわたくしは十分に意識化・言語化できていなかったが、劇場版を見た今なら、その批評性・批評意識の欠落について、もうすこしはっきり何かを語れるという気がしている。それは端的にいえば、アニメにおける時間は、漫画における時間ほどには、自在に伸び縮みしない、このことが、一つの映画としてみたときに大きな瑕疵を生じせしめているということだ。

 我々が漫画を読むとき、見開きのページが分割されたコマを、おのおのが(おおよそ作者の意図した順番通りに)それぞれの目で追っていくことで、時間の経過が生じる。その見開きのなかでどの程度(作品世界に流れている)時間が経過するかは、あらゆるページでバラツキがある、といっていいだろう。そので一刹那しか経過させないことも可能であれば、数百年を経過させてみてもよい。また、現在から未来方向へと進むだけでなく、そのなかの一部のコマでまったく違う時空で生起する出来事を語ってみせてもよい。漫画におけるある種の「上手さ」は、この時間操作の巧みさにあるのだと思う。たとえば志村貴子の作品を想起してみればよい。こうして、漫画という形式においては、時間はかなりの幅をもって伸び縮みする。

 そうしたコマ割りによって生じる時間の操作と別にして、我々と漫画との関係性から生じる時間の伸び縮みもまた存在するだろう。たとえば、漫画のコマのなかでも、小さなコマを割り当てられた、些細で記号的な心情描写と、大きなコマを割り当てられた、ある決定的な場面を演じているキャラクターの表情は等価とはいえないだろう。我々はおおむね、前者にはそれほど注意を払わず、後者には否応なしに目を奪われる。その意味で、我々の意識のうちでも、漫画の時間は伸び縮みしているのだと思う。

 アニメにおいては、漫画ほどには時間は伸び縮みしてくれない。スローモーションという手法はあるにはあるが、アニメにおいて作品世界で経過する時間は、我々の現実世界で流れる時間による拘束を、漫画よりは強く受けることになる。アニメ版『鬼滅の刃』の大きな欠点は、作り手がそのことにあまり頓着していないように感じられることから生起している。「原作に忠実に」を錦の御旗にして、原作漫画で演じられたコメディをアニメのかたちで再演しようと試みるとき、それは漫画においては箸休め的に眺められたものが、スクリーンという空間をメインディッシュのように占拠するという事態が生じるのであり、まあそれでもいいという人もいるかしらんが、それはわたくしの美意識からするとはっきりいってまったく美しくなく、耐えがたいのである。*1

 また、これは漫画というメディアではなく、週間連載という形式によってもたらされるものであるのだが、我々とキャラクターとの親密さという点においても、原作とこの映画ではまったく質が異なるにもかかわらず、そのことに頓着した形跡がほとんどみられない。週刊少年ジャンプ誌上で何週間にもわたって死闘が繰り広げられているあいだ、その死闘を演じるキャラクターは読者の頭の片隅のいくばくかを占拠できる可能性をもつ。それはTVアニメでもそうで、毎週毎週リアルタイムで視聴したときと、一気に視聴したときとでは、我々とキャラクターのあいだの親密さはまったく異なる手触りになっているだろう。この親密さの落差が、漫画を読むという経験と、映画をみるという経験にあっては、同じテレビアニメを別様に視聴することよりも大きくなることは容易に想像できるはずで、数時間前に初めてまともに会話する機会を得た先達の死にあれほど号泣するのは、やはり週間連載の特異な時間感覚が作品世界に密輸入されているからであって、それを映画という形式で再演するにあたって「忠実」に反復してやることはないんじゃないか、とやっぱり思う。

 そうしたアダプテーションにあたっての不満はおいておくとして、「より強くなる」ために「鬼」になった男に、お前は陽の光の下では逃げ回るしかない卑怯者にすぎない、ってのは確かにそうなんだけど、それは実力においても勝利してからいうべき台詞であって、ああいう状況でいってしまっては負け犬の遠吠えという感じを免れないのではないか。だからあの鬼はそのあとあの勝利宣言を嘲笑してあげたほうがよかったんじゃないか。主人公たちも鬼も、「強さ」をめぐるゲームにおいては同じ土俵に立ってしまっているように思えるし。そういえば『るろうに剣心』は、弱肉強食の論理を主人公側が(現代の目と論理でもって)否定したにもかかわらず、むしろその後の歴史において勝者となったのは、打倒されたはずの弱肉強食の論理であった......という皮肉があったわけじゃないですか。歴史を舞台にした作品がすべて、そうしたアイロニーを内在させるべきとは思わないけど、新奇な意匠以上に大正という時代への意識が感じられないことは、非常にもったいなく思う。

 

 

鬼滅の刃 9 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 9 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

*1:鋼の錬金術師』のアニメ化において、水島精二による2003年版が(脚本というよりは)演出の水準で成功し、一方入江泰浩による2009年版がそうではないのは、だいたいそういう理由だとわたくしは思う