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『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』という呪い

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 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の流れで『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を再見したので、思ったところを書き留めておきます。『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の内容に踏み込むと思われますので、ご留意ください。

絶後の傑作、『Air / まごころを、君に』 

 人類の敵、使徒をすべて撃退したにもかかわらず、平和が訪れたという感覚はなかった。消耗しつくしたようにみえる少年、少女たち。そんななか、ついに人類補完計画が発動し、ネルフの面々に、あるいは少年少女たちに最後の戦いの時が訪れる。

 1995年に放映を開始したTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編。テレビシリーズ放映終了からおよそ2年後の公開は、新劇場版の開始から完結までを目の当たりにしたいまの我々の感覚からすれば「あっという間」という気がするが、当時のそれは途方もなく引き伸ばされたように感じられた2年であったのだろう。

 すでに半ば伝説化していたこの作品に対して、わたくしは後追いで接したのだが、テレビの画面にあっても全編にみなぎる異様な緊張感に圧倒されたことを憶えている。磯光雄吉成曜らの描いた弐号機対戦略自衛隊およびエヴァシリーズの戦闘シーンは、空前絶後のものとして今なお輝きを失ってはいないし、全編の作画の水準でいってもある種の極点に達していると思う。

 たしか『アニメスタイル』創刊号のインタビューだったと思うが、庵野秀明が「アニメでできることはやりつくしたので実写で撮りたい」(大意)のような趣旨のことを語っていて、まあこの作品を作ってしまったのならさもありなん、という気がやはりする。ビジュアルでいえば、この路線で「これ以上」のものを、というのは想像しがたい。とはいえ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のパンフレットを読むと、現在では「アニメでできること」の範囲そのものを、未踏の野をゆくようにして自ら開拓・更新しているのかも、とも思うのだけれど。

 そうしたビジュアル面での圧倒的な輝きとともに、この旧劇場版は「世界の終わり」を見事に語り切ってみせたところに一つの達成をみてもよいだろう。組織的な抵抗むなしく、個々の人間がむなしく殺戮されてゆく様は、庵野秀明がしばしばその影響を口にする『激動の昭和史 沖縄決戦』へのオマージュ、変奏ととってもよいだろうし、富野由悠季監督『伝説巨神イデオン 発動篇』を想起させもする。

 それらの先行する作品群とこの『Air / まごころを、君に』との大きな差異は、そこに碇シンジという「わたし」の実存の問題を焦点化させ、「世界の終わり」という仕掛けを梃子にある種のイニシエーションを描き切った点にある。「わたし」と他者とが溶け合いすべてのディスコミュニケーションが消え去った世界を否定し、他者がしばしば理解を絶するものとして立ち現れるこの世界を受け入れること。この極めて凡庸で常識的な落としどころを、なんとか切実さを失わずに語り切ろうとした誠実さは、新劇場版の完結したいまになってより強く感受されるところである。

 その誠実さこそ、結部の「気持ち悪い」を導いたのだろう。ATフィールドが人と人とをわかつ世界を選択したことの帰結、他者の不気味さの耐えがたさに改めて慄くこと。貞本義行による漫画版が、旧劇場版を踏襲しつつも極めて微温的な結末を迎えてしまったことがかえって居心地悪く感じられるのは、そこに切実さや誠実さが感受されないからなのだと思う。その意味で、『Air / まごころを、君に』はこれ以上ない仕方で見事に完結している、と思う。

Air / まごころを、君に』の変奏としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』

 翻って、『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』においては、『Air / まごころを、君に』と同様に世界の終わりとそれに相対する人々が描かれていても、その手触りはまったく異なるものになっている。碇シンジという個にドラマを収斂させるのではなく、一人一人のキャラクターそれぞれに救済を与えるという仕方で、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品に幕を引こうとしたのが『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』なのだと思う。

 人類補完計画が発動した世界の終わりにあって、『Air / まごころを、君に』においてはほとんどなすがまま巻き込まれるだけだったネルフの人々は、『シン』では最後の最後まで人類存続のために戦い続ける。漫画版1巻に掲載された「我々は何を作ろうとしているのか?」では、碇シンジと並ぶ主人公と位置づけられながら、最終的には道半ばで退場したという印象を残した葛城ミサトもまた、『シン』では自身の仕事を全うしてシンジにすべてを託す。

 こうした展開を構想した作り手の動機について、外野が勝手に推測するのはおおよそ不毛なふるまいだろう。しかし不毛を承知で語るなら、それは『Air / まごころを、君に』において、碇シンジのドラマが焦点化されたことで、きちんとした決着をみることができなかった他のキャラクターへの贖罪とみてもよいのではないか、という気がする。

 アムロ・レイのいない『ガンダム』がありえても(現にある)、シンジやレイ、アスカのいない『エヴァ』はありえない。『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、キャラクターの魅力に拠って立つところ大である、といっても間違いではないだろう。それは無数の関連商品によって形づくられた認識だろうし、また無数の二次創作の積み上げがそうさせたのだろうという気もする。

 そうした二次創作を駆動した動機の一つは、碇シンジのイニシエーションとしての『新世紀エヴァンゲリオン』ではない、また別の『エヴァ』があっていい、そういう志向だったのではないか。それもまた、『Air / まごころを、君に』の呪いの一形態であるのだろうと思う。そして新劇場版、とりわけ『破』では、そうした二次創作的な想像力に寄り添う仕方でオルタナティブな『エヴァンゲリオン』が語られたのだ、という気もする。『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』においては、あたかも無数のパラレルワールドとしての二次創作を包摂するような感触があった。

 綾波・式波という二人のヒロインが「設計」されたものだという言及は、新劇場版もまた、『新世紀エヴァンゲリオン』のあと、完璧な結末のあとに語られた無数の二次創作の(極めて豪奢な)一変奏でしかありえない、という自覚によってなされたものなのかも、とも思う。だから、綾波は田植えをしてもよいのだし、アスカは「あの時好きだった」のような陳腐な言葉を吐いてもよいのだ。それは二次創作的想像力を引き受け、『Air / まごころを、君に』の呪いを解くための方策の一つなのだろうから。

 『Air / まごころを、君に』において無残な結末を迎えたキャラクターたちに、きちんと仕事を全うさせること。いわばキャラクターの水準での救済が、『Air / まごころを、君に』の変奏としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の課題設定であり、そしてそれが映画としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』をいびつなものにしているとも思う。『シン・エヴァ』への拒否反応を引き起こしているのは、この課題設定への違和感ではないか、という気がなんとなくする。

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の結部、宇部新川駅でDSSチョーカーが外されるのは、「落とし前をつけた」ことの証明か、はたまた『Air / まごころを、君に』後も作家を呪縛していたものからついに解放されたということの喩か。

 しかしどうも、このような仕方では『Air / まごころを、君に』の呪いは解けはせんぞ、とでもいうような響きを、『シン・エヴァ』への拒否反応のなかに感じたりもする。ありえたかもしれないオルタナティブな『エヴァンゲリオン』を望む欲望は、このすべてを包摂する『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』で全面的に肯定されたといっていいと思う。しかし、「これしかありえない結末」として、空前絶後の仕事としての『Air / まごころを、君に』の呪いは、果たしてどうだろうか。その呪いを解きうるのは『新世紀エヴァンゲリオン』の仕事というより、数多存在するフィクションを、各々がそれぞれの仕方で引き受けていくこと、それしかありえないという気もするのだけれど。

 

 

 

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