このところ、『学園戦記ムリョウ』を再見していました。リアルタイムで視聴して以来だったのですが、非常に誠実な作品だなと感じて、よかったです。
「宇宙人は、実はいました」。この荒唐無稽な政府の宣言は、意外なことに世界の人々をそれほど驚愕させなかった。2070年。日本。宇宙からの来訪者とのコンタクトが進行する中、太平洋に面した街、天網市では宿命を背負う少女・少年たちがその使命を果たそうとしていた。
原作・脚本・監督は『機動戦艦ナデシコ』の佐藤竜雄。2001年に放映され、当時どれほどの反響があったかはわからないが、Blu-ray化もされていて現在もアクセスは容易。セル画のオールドファッションな雰囲気と、吉松孝博の素朴でキュートなキャラクターデザインは、いま眺めると奇妙な懐かしみを喚起させ、それが一つの魅力になっている。しかし懐かしさを喚起する一方で、それが時代遅れの痛々しさとは無縁であるところがこの作品の美点であって、ルックもお話もある種の普遍性みたいなものを備えていると思う。その普遍性はやはり、この作品がいかに誠実に制作されたのかを雄弁に語ってもいるという気がする。
1話の冒頭で突如現れる巨大な異形、そしてそれを撃退する巨大ロボットじみた存在という構図は、おそらく当時の視聴者に『新世紀エヴァンゲリオン』を想起させたと推察する。そして中学生が敵と戦う運命を背負わされている、という点においても。親族が戦いのなかで命を落としていた、というような過去が語られもする。しかし、この作品は『新世紀エヴァンゲリオン』的な陰惨さとは距離をおき、あくまでも明るいトーンを崩さずに進行する。最終盤、地球の破滅、あるいはヒロインの死が賭された場面——このシチュエーションにもいくばくか『Air / まごころを、君に』風の調子を認めることもできると思う——においてなお、その明るさは失われることはない。そこでは少年の素朴な感情が地球を救済するような仕掛けになっていて、しかもそこに嫌味な感じやわざとらしさがないのがほんとうに素晴らしいと思う。
未来において、我々はこのように明るくスマートに物事と対峙できるはずだ、という信頼。それこそがこの作品の雰囲気を決定づけている、と感じる。宇宙外交を担う政治家から、近所のおじさん・おばさんにいたるまで、作中の大人たちの振る舞いは理知的・冷静で(ここにも『新世紀エヴァンゲリオン』へのアンチテーゼを見てとることもできるかもしれない)、作品世界に生きる人類たちは我々よりもはるかに「大人」だと感じる。
このことは、現在を生きる我々をいささか打ちのめしもする。政治は無理を通して道理を引っ込ませ、そこに知性の輝きの一片でも見てとることは難しい。世界各地で分断がおあられ、敵と味方の色分けを鮮明にして相争うことが日常としてまかり通ってしまう。この作品が制作された2001年——放映開始は9月11日よりも前のことだ——の世界はもっとよかった、などというつもりはない。それは愚かで有害な種類の懐古趣味にすぎない。けれど、そこにはこうして明るい未来を信頼できる何かがあったのかもしれない、という考えもふと頭をよぎる。それでも、この明るい未来のこどもたちの冒険の輝きは、未だ色あせてはいないのだし、そこにはやっぱり救いみたいなものがあるだろう、とも思う。
NHKのジュブナイルSFといえば、その後磯光雄による超傑作『電脳コイル』がつくられるわけですけど、『電脳コイル』のトーンは結構暗いっすよね(それがいい悪いではなく)。大人は何もわかっちゃくれない!みたいな調子も、ムリョウとはまったく違うわね、とも。
『無人惑星サヴァイヴ』とかもおもしろくみてたんですけど、かなしいかなあんま憶えてないわね。
再見のきっかけは以下の記事でした。