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呪い師の足——『殺人の追憶』感想

殺人の追憶(字幕版)

 ポン・ジュノ監督『殺人の追憶』をみたので感想。

  1980年代半ば。大韓民国。牧歌的にも思える、黄金色の稲穂の揺れるあぜ道。水路をのぞき込む男。凄惨な死体。おぞましい顔。こうしてまだ都市化の波が押し寄せる以前とおぼしき農村で、女性をターゲットにした恐るべき連続殺人が始まる。

 1986年から91年にかけておきた、華城連続殺人事件をモチーフにした戯曲の映画化。2020年現在、同事件の犯人とされる人物が特定されたようだが*1、この映画が公開された当時は未解決事件だった。

 猟奇殺人という主題を扱った映画には枚挙にいとまがない。雨のなか凄惨な殺人が行われ、主に二人の刑事が殺人鬼を追跡していくさまはデヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』を想起させるし、シリアスともコメディともつかない奇妙な雰囲気は、北野武のいくつかのフィルモグラフィや、コーエン兄弟の『ファーゴ』の記憶を喚起する。

 それらの先行する作品群との差異をこの『殺人の追憶』に見出すとすれば、ソン・ガンホ演じる地元の刑事、パクのまとう特異な雰囲気に求められるのではなかろうか。ソウルからやってきた若手刑事が、警察権力の近代性を象徴するような合理性の側にいるとすれば、パクはそうした近代的な合理性などほとんど意に介していないように思える。これがある種の典型的な探偵小説であるならば、パクは物語上の装置としての探偵にはまったく不適格だろう。拷問で自白を強要し、それをもって犯人と決めつけたり、恋人から聞いた曖昧なうわさを証拠に強引に捜査をすすめたり、挙句は怪しげな風水師に頼ったりする。そして、世間からは「霊媒師の眼をもつ男」などともよばれているらしい。

 パクのもつ属性は、探偵小説ならば、探偵役ではなくその当て馬的な存在のまとう要素に思える。ソウル市警の若手刑事が蒙昧な「霊媒師」を打倒し、近代市民社会の秩序は近代的合理性の論理によって回復される。極めて図式的な見立てがここで構想しうる。しかし、優れたフィクションはそうした図式を悠々とはみ出していくのだし、『殺人の追憶』も無論、その優れたフィクションの一つなのだ。

 物語はパクの非合理性を嘲りつつも徹底的に突き放しはせず(風水師の助言が奇妙な遭遇をもたらしたりするし、拷問で決定的な情報を得ていたりする)、ソウル市警の刑事の合理性だけににこやかにほほ笑んだりするわけではない。パクの無茶苦茶な捜査も、たとえば類型的な悪徳警官がそうであるように、金銭欲や名誉欲に突き動かされているのではなく、彼なりに真剣に事件を解決しようとしているらしいことがわかる。序盤で描かれる、精神薄弱な青年への拷問による自白強要の内容を台本を憶えこませたものとみなす若手刑事の、あるいは我々の先入見は、パクを典型的な悪徳警官とみなす視線によって支えられるが、そうした単純さをこの物語は許容しない。

 「犯人」とされる人物——それが実際に犯行が可能であったかはさして問題とはならない——を逮捕しさえすれば、秩序が回復されると信じて疑わないようにみえるパクは、近代の探偵小説の主人公というよりは、むしろ狩りの無事を祈って若者たちの帰還まで踊り続ける酋長に似る。そして、DNA鑑定の結果を目にしてなお、目の前の男を裁こうとする若手刑事の姿は、近代の合理性の圏域から離れ、パクの呪術師的な合理性の重力に接近してゆく。こうして名探偵にも霊媒師にもなり損ねた彼らの冒険は敗北に終わる。

 パクは刑事の武器は足だと語る。広いアメリカ合衆国では頭脳が大事かもしれないが、この狭い大韓民国では足をつかって捜査することがものをいうのだと。我々は彼らの足が、地道な証拠集めというよりは、あからさまに躊躇なく振るわれる暴力のために嬉々として使われている様を目撃する。そしてその暴力を象徴する一本の足が、破傷風によってはかなく身体から切断されたことも。この『殺人の追憶』における警察的なるものの敗北は、まさしくこの一本の足に託されている。しかし足はもう一本残っている。呪い師の足が生贄に捧げられたとして、もう一本の足の持ち主がいかなる人物か、我々はそれを恐れなければならない。

 

 

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