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映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

『かぐや姫の物語』 世界はかくも美しい

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 昨日、高畑勲監督『かぐや姫の物語』を見に行った。予告編でも、その超絶な作画の一端を見ることができたが、本編も予告と比べて遜色なく、いや、むしろ予告で見せた以上の唯一無二の美麗な場面の連続。137分全てが見せ場といっても過言ではない、すごい映画だった。以下で感想を述べておきたい。ネタバレが含まれるのでご注意を。

 『かぐや姫の物語』は「走り」の映画だ!

 『かぐや姫の物語』の魅力は、なんといっても美麗かつ独特な、その作画。序盤は森の木々や虫、獣が生き生きとえがかれ、中盤からは都の人々の壮麗な暮らしぶりを見事に活写している。全ての場面が、偏執的なまでにディティール豊か。その作画の力が、大筋は「誰でも知っている物語」を退屈せずに魅せる原動力となっている。

 そしてなんといっても、「走り」の作画の素晴らしさが際立っている。自分が『風立ちぬ』を観た時に流れた予告でも*1、かぐや姫が疾走するシーンが印象的だったが、正直、「なんで『竹取物語』なのにかぐや姫が走っちゃうわけ?」みたいな、物語とのギャップみたいな違和感があった。

 しかし本編のそのシーン、かぐや姫が、竹取の翁たちと共に野山で過ごした幼少期を描写することによって、また、昔の暮らしと今の暮らしのギャップに苦しむ姫を描写することによって、見事に走る意味づけ、必然性が与えられていた。まさか疾走するかぐや姫に感情移入しようとは思わなかった。この走り回る野生的、「動的」な側面と、高貴の姫君としての「静的」な側面が薄氷のバランスで共存し合い、かぐや姫はこの上なく魅力的なヒロインとして再構築されたんじゃないかな、と思う。その意味でも、かぐや姫は「走る」ヒロインであり、『かぐや姫の物語』は「走り」の映画だなあ、と思った。

 

美麗な作画の必然性―メッセージとの見事な一致

 また、『かぐや姫の物語』の素晴らしさは、上で述べたような超絶に美麗な作画が、超絶的に美麗でなければならない、その必然性があることだと思う。その必然性とは何か。それは、作品のテーマ、おそらく高畑監督が伝えたかったであろうメッセージが、美麗な作画をもってしなければ伝えられないものだ、ということだ。

 本作のテーマは、おそらく最後のかぐや姫の語りに集約される。姫を迎えにきた月の人が言う。月に戻ろう、穢れた地球から離れられるのだ、と。姫は反論する。穢れなき月とは違ってこの地球は雑多なもので溢れているけれど、その雑多な虫、獣、人々の生きる様は美しく、素晴らしいのだ、と。

 この語りは、それまで美しい場面を見続けたからこそ、この上ない説得性を持つ。このメッセージは、自分には反論の余地すらないほど、強烈に感じられた。少しでも多くの人に、この映画を見てほしい。映画館でこの映像美を味わってほしい。そう思える映画だった。

 

 

 

 

かぐや姫の物語 ビジュアルガイド (アニメ関係単行本)

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*1:You Tubeにあるかと思ったら見つからず。