もうお盆も終わって、夏の終わりも見えたり見えなかったりするぐらいの感じでしょうか。夏になると見たくなる映画っていくつかあるんですが、『機動警察パトレイバー the Movie』は自分のなかでその筆頭。もう何回見たか分からないほど見ていて、今日もだらだらと見返していたんですが、その感想を適当に書いておきたいなと思います。
エンタメとそれに回収されない「風情」
『機動警察パトレイバー the Movie』を見返していつも思うのは、エンタメとしてパーフェクトに完成されているなーという。自殺した天才プログラマー帆場暎一の陰謀を、警察が探るサスペンスは半端なく面白いし、台風が来襲するクライマックス、「方舟」のなかでのレイバーのアクション...。押井守監督作品のなかでこんなにまっとうな娯楽作品ってあるのか?と思えるレベルだと思うんですよね。単純に筋をおって画面を眺めているだけでも十分すぎるほど楽しい。
もちろん単純なエンタメに回収され得ない魅力もあると思っていて。それはひとことでいえば「風情」ということばで表せるのかなと思います。
その「風情」のひとつが、作品全体にあふれ出る季節感。謹慎をくらった遊馬がシゲの家で推理をめぐらす場面なんかは本当に夏って感じがして、めちゃくちゃ好きです。そこに端的に表されている夏の感覚は、クライマックスで東京を襲う台風を予感させる伏線として機能しているのもすんばらしい。台風も季節感を感じさせますよね。台風が来るたび、この映画のことを思い出すのは僕だけじゃないと思います。
そんな季節感という風情あふれる本作ですが、なにより強調される「風情」は、「古き良き東京」じゃないかと。そしてそれは、次回作『機動警察パトレイバー 2 the Movie』にも継承される東京の変容、つまりは劇場版パトレイバーを貫く線として明確に存在するんじゃないかと思います。
変わりゆく「東京」への郷愁
劇中、松井刑事とその部下、片岡が帆場の痕跡を追って東京の下町を転々とするシークエンスが印象的に挿入される。はじめて見たときは、正直、ぼんやりとこの場面を眺めていたような気がするんですが、今ではこの松井刑事の下町めぐりこそ、『機動警察パトレイバー the Movie』の魅力の最たるものなんじゃないかと思ってるくらい、この場面が好きで。
帆場が住んだアパートは、どこもかしこもおんぼろで今にも倒れそうな、もしくは取り壊されている最中の建物だったりする。そこで現前するのは、大都市東京のもう一つの顔。そのもう一つの顔は、しかしいまや古びて廃墟となりつつあり、実際に取り壊されようとしてもいる。
それを終えた松井刑事が、後藤隊長に報告する台詞は、その変わりゆく東京への、えも言われぬ郷愁を端的に表している。
後藤「エホバ天をたれてくだりたもう。御足のもと暗きことはななだし。旧約聖書の詩編の一つだよ。帆場本人が書き残したものとみて間違いないな。それにしても帆場の生まれた家、よく探しあてたね」
松井「なあに引越しの後をさかのぼってったらたどりついちまっただけさ。だがこれで終わり、デッドエンドだ。あのあたりは80年代の土地狂乱のころ、地上げで壊滅した街の一部でね。その後の国土法の制定や何やらで結局活用されずに、いわば宙に浮いてた土地だったんだそうだ。
それにしても奇妙な街だなここは。あいつの過去をおっかけてるうちに、何かこう時の流れに取り残されたような、そんな気分になっちまって。ついこの間まで見慣れてた風景があっちで朽ち果てこっちで廃墟になり、ちょっと目を離すときれいさっぱり消えちまってる。それにどんな意味があるのか考えるよりも速くだ。ここじゃ過去なんてものには一文の値打ちもないのかも知れんな」
後藤「俺たちがこうして話してるこの場所だって、ちょっと前までは海だったんだぜ。それが数年後には、目の前のこの海に巨大な街がうまれる。でもそれだってあっという間に、一文の値打ちもない過去になるに決まってるんだ。たちのわるい冗談につきあってるようなもんさ。帆場の見せたかったものって、そういうことなのかも知れんな」
かつてそこに存在したものが、あっというまに消え去ってしまう。多くの人間はそのスピードについていって、というか不可避的に流されて日々を生きている。だがしかし、その途方もない速度に気付いてしまった男は、その恐ろしさにおののいて、いったんそれに抗わねばならないと決意したのではなかろうか。そんな人物像を、帆場暎一という、作中でみずからを語らなかった犯罪者に仮託することは許されるんじゃなかろうか。
帆場は過激な復古主義者なのか。と言われたらそういうわけではない。猛スピードで変わりゆく東京という現実の、切り捨てられつつある先端を生き続けた帆場には、残念ながら取り戻すべき明確な過去の像はなかったのではないか。ただただ、消えゆく東京を懐かしむことしかできなかった。だからこそ、帆場はみずからを語らず、いや語るべき言葉をもたず、その完全犯罪の達成をみることなく、死を選んだのではなかっただろうか。
しかし、作中で帆場は「バベルの塔」やら「方舟」やら、聖書的なモチーフと結び付けて語られる。それは端的に言って、上で述べた僕の帆場暎一像が誤っている、と作中で示されるということを意味する。後藤隊長の推理はこうだ。
後藤「俺はねしのぶさん。帆場って男のものの考え方が、ようやくわかってきたような気がするよ。くる日もくる日も、部屋の窓から高層ビルを見上げてどんな犯罪をたくらんでいたか。
エホバくだりて、かの人々の建つる街と塔を見たまえり。いざ我らくだり、かしこにて彼らの言葉を乱し、互いに言葉を通ずることを得ざらしめん。ゆえにその名は、バベルと呼ばる」
南雲「でも偶然ということも」
後藤「帆場が死に場所にあえて方舟を選んだのも偶然かい。すべてが聖書との暗合にもとづく計画だとすれば、ターゲットからバビロンプロジェクトを洩らすはずがない。災いなるかなバビロン、そのもろもろの神の像は砕けて地に伏したり。あげればまだまだ出てくるさ、彼がわざわざ残したメッセージだもの。たとえばこんなのもある、帆場の26箇所の転居先はすべて遊馬が見つけた3つの暴走多発エリアに重なるんだ。松井さんも不思議がってたよ、謎をといてくれと言わんばかりのやりくちだってね。やつはそんなロマンチックな男じゃないよ。警察なんぞはなから相手にしていやしない。自分のプログラムに絶大な自信をもっていたのさ。そうでなけりゃ結果も見定めずに死んだりしやしない。おそらくあいつは俺たち、いやこの街に住むすべての人間を嘲笑しながら飛び降りたに違いないよ」
後藤の推測では、帆場は聖書になぞらえてみずからの犯罪を行う、確信犯的な犯罪者。東京への郷愁など考慮にも入らないばかりか、(文脈はともかく)「やつはそんなロマンチックな男じゃない」とまで切って捨てる。
とはいえ、帆場がみずから語らなかった限りにおいて、この後藤の推理もひとつの説にすぎない。帆場暎一というある種のゼロ記号になにを読み取るのか、その自由は読み手である我々にゆだねられていると、そうした余地が十二分に残っているんじゃなかろうか。この限りにおいて、僕の「古き良き東京を懐古するロマンチスト」としての帆場暎一、という読みもまた許されなくもないのかなー、という。
そしてこの懐古趣味人としての帆場、という人間像は、作中で繰り返される聖書のモチーフとは決して矛盾しない。矛盾しないどころか、絶妙に絡み合ってさえいる。1980年代を生きた人物の語りが、それを明確にするための補助線になる。
今の東京というものの骨格は震災でできたということですね。それが戦災で消え、高度成長で消え、いま都市開発という形で、下町的な古いものが全部消えそうになっているわけでしょう、西洋館も含めて。そういう意味では、東京の街ということを都市論的に言うと、いまは一つの終末期ではあるわけですね。(松田)
赤瀬川原平他編『路上観察学入門』p135
「古いものが」消えそうになっているという実感、そしてひとつの「終末」を読み込んでさえいる。この現状認識こそ、帆場をしてロマンと聖書的なモチーフを接続せしめた回路を示しているのではなかろうか。
つまり僕が言いたいのは、本編中である種の「答え」として提示される後藤の説は、帆場のある一面だけを抜き出した、片手落ちの推理にとどまっているのではないか、ということである。僕の考える帆場=懐古趣味人、という像が絶対的に正しいと主張したいのではない。むしろ、自分自身を語らなかったがゆえにその人物像を語る余地が観客の手に無限に残された、帆場暎一という人物。彼について語ることの面白さこそ、『機動警察パトレイバー the Movie』の大きな魅力ではないか。そんな感じのことを言いたいわけですよ。
その後の東京と帆場暎一の敗北
作中で、帆場の計画はある意味で成功する。湾岸地帯の壊滅は阻止されたものの、「方舟」の破壊によってバビロン・プロジェクトの進行を遅らせる、という点において、帆場の計画は部分的な達成をみたともいえる。
計画は成功したかもしれない。しかし、続編たる『機動警察パトレイバー 2 the Movie』において、帆場の敗北は明らかとなる*1。『 機動警察パトレイバー 2 the Movie』で描かれる東京は、帆場がかつて転々とした古びて消え去ろうとする下町の風景が完全に消えさった、無機質な都市だ。犯罪者としての帆場は、たしかに勝利を得たかもしれない。だがしかし、ロマンチストとしての帆場は、変わりゆく東京の前に完全に敗北した。
登場人物の言葉をかりるなら、「蜃気楼のような」、幻の都市。リアリティを脱臭された東京に、もはや帆場の懐かしんだ下町のリアリティはない。上で引用した『機動警察パトレイバー the Movie』の松井と後藤のやりとりには、続きがある。
後藤「我々はどこへ行くのか、我々は何者なのか。」
松井「何だいそりゃ。」
後藤「大昔ヨーロッパに攻め込んで破壊の限りをつくした野蛮人の隊長が壁に書いた文句。」
アレクサンドロス3世の言葉とも、ゴーギャンの引用ともとれる、この問いかけ。これに対する回答は、作中ではなされない。しかし偶然にも、本作と同時期に公表された吉見俊哉氏の論考に、示唆的な一文がある。それを引用しよう。
消費社会とは、ひとつの巨大な忘却のメカニズムなのかもしれない。新しい都市の風景を次々に演出し、人びとの欲望をそこに誘いながら、同時にそうした風景の由来を忘れさせていく。私たちが今何処にいるのか、何処から来たのか、そして何処に行くのか、そうした問いはここでは意味をなさない。私たちは強迫観念的に無菌化された現在のなかに逃げ込み、その現在が絶えず相貌を変化させながら繰り返されていく。
吉見俊哉「遊園地のユートピア」『リアリティ・トランジット』p71
松井の台詞との重なるような、消費社会のありかたを述べた後、吉見氏は「野蛮人の隊長」の問いに答える。いや、その問いの不可能性をつきつける。この不可能性こそ、後藤がすでに予感し、続編で提示された帆場の敗北を決定づけたものなんじゃないかなーなんて思ったり。
しかし帆場の敗北は、あらかじめ仕組まれたものだったような気もしてくる。後藤は、帆場の犯罪をこう評した。
「もし失敗するようなことがあれば湾岸一帯は壊滅、被害がどこまで広がるか見当もつかん。しかし成功したとしても、バビロンプロジェクトは方舟を失って大きく後退することになる。どっちに転んでも分のない勝負さ。もしかしたらあいつが飛び降りたとき、すでに本当の勝負はついていたのかもしれん。そうは思わないか」
帆場の計画したレイバーの暴走が起ころうと起こるまいと、バビロンプロジェクトは後退を余儀なくされる。後藤はそれをもって「どっちに転んでも分のない勝負」とごちるわけだが、これはそのまま帆場の認識と裏表をなすんじゃなかろうか。一時的にプロジェクトが後退しようがしまいが、東京はとめどなく変わり続けてゆく。消えゆく古き東京を転々とした帆場に、その実感がなかったはずはない。また、その犯罪の両義性は序盤で暴走レイバーが下町的なものを破壊するシークエンスで表出してしまっているとも読み取れる。古き良き東京を守ろうという意思が、しかそれを壊さずにはおられないという矛盾。
その意味で、帆場にとってもこの犯罪は「どっちに転んでも分のない勝負」だったのかもしれない。そこまで勘案してなお、古き良き東京に思いをはせずにはおられなかったロマンチスト。それが帆場暎一という男なのである。
21世紀になってはじめて東京に足を踏み入れた僕にとって、1989年に公開されたこの映画で描かれる東京は、もうとっくに失われたものでしかない。しかし、その残滓というか、僅かに残る古き東京の欠片もまだまだ東京にはあると思うんですよね。パト2で描かれた、リアリティを脱色させられた都市のなかにも、そんな帆場の亡霊をも感じさせるような契機が確実に存在しているような気がして。
そうした帆場の亡霊=古き良き?東京の記憶を呼び起こす映像として、たんなるエンタメ映画以上の霊感が、『機動警察パトレイバー the Movie』にはあるんじゃないかと思います。
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【作品情報】
‣1989年/日本
‣監督:押井守
‣脚本:伊藤和典
‣演出:澤井幸次
‣出演
- 篠原遊馬:古川登志夫
- 泉野明:冨永みーな
- 後藤喜一:大林隆介
- 南雲しのぶ:榊原良子
- 香貫花クランシー:井上瑤
- 太田功:池水通洋
- 進士幹泰:二又一成
- 山崎ひろみ:郷里大輔
- シバシゲオ:千葉繁
- 榊清太郎:阪脩
- 実山:辻村真人
- 松井刑事:西村知道
- 海法部長:小島敏彦
- 福島:小川真司
- 片岡:辻谷耕史
- テレビの天気予報レポーター / 政府広告ナレーション:林原めぐみ
- 方舟の篠原重工スタッフ / ウェイター / 特車2課の整備員:子安武人
- 暴走レイバーの運転手:立木文彦
*1:時系列的なつながりはさておいて