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東京には幽霊が徘徊している―『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』感想

THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦 オリジナル・サウンドトラック(仮)

 

 『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』をみました。TNGは今までスルーしていたのですが、パト2を想起させる本作は見てみたいという気持ちがあってですね。現在gyaoで無料公開されている総集編と7章のみ視聴した状態で見に行きました。結果として、今までのTNGはともかくパト2だけ見ておけばお話は理解できるという親切設計で助かりました。以下で簡単に感想を。ネタバレを含みますのでご容赦を。

 東京の幽霊たち

 すでに人型作業機械、レイバー産業が衰退した現代。そんな中で、かつてレイバー犯罪を取り締まるために設立された警視庁警備部特科車両二課、通称特車二課も、その存在の意義を危ぶまれていたものの、とにかく事件を解決したりしなかったりしていたのであった、というのがTNGシリーズの舞台設定。

 そのような状況下で、かつて首都を非常事態に陥れた柘植行人のシンパが、10年以上の時を経て再びテロを画策するに至る。そのテロという犯罪との戦いが、この『首都決戦』では描かれる。

 『首都決戦』は、きわめてシンプルに要約するならば、「幽霊」をめぐる物語であるといえる。幽霊、それはかつてはそこに存在したものの残滓。テロリストの駆る戦闘ヘリ、「AH-88J2改グレイゴースト」の名に端的に表われているが、全体を通底しているのは、22年前の『機動警察パトレイバー2 the Movie』の幽霊。本作の前半は、アニメ映画を実写で再現したような趣がある。登場人物を変え、アニメから実写へと舞台を移して再び演じられるパト2

 そして、誤解を恐れずいうなら、それはアニメ版よりはるかに「嘘っぽい」のだ。『機動警察パトレイバー2 the Movie』はリアルよりのキャラクターデザインやら緻密な都市の描写やらで、アニメなのにも関わらずやたら「本物っぽい」映画であった。しかし本当に本物(これもへんな言い方だな)であるはずの実写が、何故かアニメより「嘘っぽい」というねじれ。このねじれこそ、本作の「幽霊性」みたいなものをより際立たせている。

 すでに本物は死に、幽霊だけが徘徊する東京。柘植のシンパの中でもひときわ異彩を放つ狂気の天才ヘリパイ、灰原零の正体はそれを端的に象徴しているわけだが、後藤田率いる第2小隊の面々も、そして柘植のシンパも彼女と対して変わらない。彼らもまた、「栄光の初代」やら柘植というカリスマを焼きなおした幽霊でしかない。

 第2小隊の面々はともかく、柘植シンパの連中の描写が薄く、かつての帆場暎一や柘植行人と決定的に異なる印象を受けるのは、彼らが幽霊に過ぎないから。柘植は、「あの敗戦で決定的に失われた正義・モラル」を取り戻すためにテロを起こしたわけだが*1、幽霊たちはそれをそのまま再演するだけだ。

 そうした幽霊たちと相見えるために、後藤田をはじめとする特車二課の面々もまた「良き伝統」ってやつを引き受け、自ら幽霊になることを選ぶ。だからゲートブリッジ上の、とってつけたような、テロ事件の帰趨とはそれほど関わりがないクライマックスは、幽霊同士が決戦を演じるという意味において、間違いなく本作のクライマックスなのだ。イングラムは、一度は電源が落ちるも再び再起動して、ぼろぼろになりながらも敵と対峙して見せる。その様にもある種の幽霊性を読み込むのは、すこし乱暴すぎるだろうか。

 柘植の幽霊たちは敗れ去るわけだが、幽霊自体は完全に消え去ることはない。そしてその幽霊は、多分また東京に現れる。

 

 そんなわけで『首都決戦』は幽霊の映画だ、と思ったりしたわけですが、これはパトレイバーという作品群、押井守という監督を想定したときに結構意味深なのでは、という気がします。パトレイバーという亡霊を祓うという意味で、TNGは創られねばならなかったのかも、的な。見てないんであれですけどね。とりあえずこんな感じです。

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THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦 オリジナル・サウンドトラック(仮)
 

 

 

 

【作品情報】

‣2015年/日本

‣監督:押井守

‣脚本:押井守

‣出演

 

 

*1:それはあくまで彼自身(製作者自身?)による事後的な解釈であり、『機動警察パトレイバー2 the Movie』における彼の行動はそのような観点から説明可能なものであったとは到底思われないことは個人的には強く留意しておきたい。