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循環する喪失と獲得―アニメ『進撃の巨人』感想

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 実写版の流れで今まで長らく録画してしっ放しになっていたアニメ版『進撃の巨人』をみました。いやー、流石にヒットしてるだけあって面白かったです。一気にみてしまった。以下で適当に感想を。

 高アベレージなアクション活劇

 かつて人を喰う巨人から逃れるため、人類は三重に壁を築き、束の間の平和を享受していた。しかしその平和は突如現れた超大型の巨人によって壁とともに打ち破られ、母親を巨人に喰い殺された主人公、エレン・イェーガーは巨人たちに復讐を誓う。

 そのようにして平和な世界の崩壊とエレンの決意・軍に入隊しての修業を描いたプロローグと、彼らの初陣を描いた前半戦(1クール目)、調査兵団として打って出て、強大な敵、女型の巨人と遭遇、そして打倒までを描いた後半戦(2クール目)、全編通して絶妙に緩急をつけつつ緊張感が持続していて、ストーリーテリングが巧みだなあと。この場合、緊張感が連続していることよりもむしろ緩急のつけ方のほうにこそ巧みさは洗われているのかもしれない。前半は市街地、後半は主に壁の外と常在戦場という感じで戦い続ける中で、うまく緩急をつけたからこそ、アクションが活きる。

 そのアクション作画がなによりの魅力で、立体機動装置によって市街地をスパイダーマンよろしく猛スピードで飛び回るの場面は爽快極まる。もう毎回毎回すばらしいのでもうそれが当たり前のように思えてくるんですが、やっぱりこのアクションはすげえと。これがなかったらこんなに楽しくなかった。

 そしてその立体機動のアクションの在り方は、作品のテーマと分かちがたく結びついているという意味でも丹念に描かれねばならなかった。

 

失わなければ、得られない

 端的にに要約するなら、『進撃の巨人』は主人公エレンが、失うことによって前に進む物語である。エレンは、物語中でひたすらに失い続ける。まず母を失い故郷シガンシナを失い、トロスト区を防衛するための初陣では第104期訓練兵団の仲間を失い、手足を(一度は)失う。そして壁外調査では頼れる先輩と信頼関係を築いたとたん、すぐさま彼らは死ぬことになる。そして物語の結末では、女型巨人=アニ・レオンハートを倒すことで、青春を失う。青春は終わり、しかし戦いは続く。

「何も捨てることのできない人に、何も変えることはできない」

 終盤にアルミンの口から繰り返し繰り返し語られるこの命題は、作品世界における理、いやそれ以上にエレンという人物を規定する呪縛を的確に言い当てている。しかし意図的に捨てる、というのだけではなく、不可避的に失うということも含みこんで考える必要があると思うが。

 エレンは、母と故郷を失うことで強烈無比の復讐心を得、手足を失うことで巨人の力を覚醒させ、先輩たちを失うことで自身の決定的な過ちを知る。物語の結末では、女型巨人であるアニを倒すことで、人類の未来の可能性を得たともいえる。しかしその勝利は、勝利である以上に喪失なのだ。

 アニ・レオンハートとの対決と別れが、意図的にしろそうでないにしろ物語の締めくくりに配されたことによって、彼女とエレンの関係には特別の意味が付与されてしまった感がある。第4話「解散式の夜―人類の再起 (2)―」、格闘訓練の際にエレンはアニに完膚なきまでに叩きのめされる。第21話「鉄槌―第57回壁外調査 (5)―」においても、両者の姿は大きく異なれど、その格闘戦は再演される。そしてようやく第25話「壁―ストヘス区急襲 (3)―」においてエレンはアニに勝利をおさめる。こうして整理するならば、アニメ版『進撃の巨人』は、「エレンがアニに勝てるようになる」物語なのだ。

 エレンにとってアニに勝つことは、敵を倒すことというよりは大事な人物を失うことなのだ。その大事な人物というのは、多分、単に同じ釜の飯を食い生死を預けあった戦友同士、という以上の意味がある。エレンは意識していたかどうかは定かでないし、おそらく自らそう意識したことすらなかったろうが、エレンにとってアニはおそらく初恋の人だったからだ。

 エレンがアニを倒すために巨人になろうとして果たせなかった際の、ミカサの強烈な圧力はそれを裏書きしている。エレン自身はそう意識せずとも、彼を誰より観察しているミカサにはそれははっきりとわかることだった。だからあれほどの強烈な反応をせずにはいられなかった。

 エレンは初恋の人を失う。それによって勝利を得る。それはアニの選択の結果とまさしく対照をなす。恋心ゆえに自身のアキレス腱ともいえる情報を持つアルミンを殺せなかったこと、恋慕の情を捨てられなかったことこそ、彼女の敗北を決定づけたのだから*1。甘い感情を捨て去ったものが勝利し、そうでないものは敗北する。そうして彼/彼女らの青春は終わりをつげ、また新たな物語が始まる。アニメ版『進撃の巨人』は、ひとつの青春が終わる物語なのだ。

 

立体機動する運命

 喪失して、別のものを得る、という構図の無限とも思える反復。『進撃の巨人』の世界に身を置くものは、それの反復の中に身を置かざるを得ない。ある時は自ら捨て去るものを選び取り、ある時は不意に何かを失い、そして何かを得て、人々は前に進み続ける。前に進めないものに待つのは死。そうした反復の中におかれ続ける人々のありさまを端的に摘出しているのが、立体機動装置のアクションなのである。

アニメ「劇場版 進撃の巨人」PV - YouTube

 立体機動装置は、時にワイヤーによって、時にガスによって動作する。人は時に引っ張られたり押されたりする。このどうにも自由にならない立体機動装置の動作にこそ、『進撃の巨人』における人間の運命が表出しているのである。だから立体機動装置はアクションのかなめである以上に、運命の象徴なのだ。

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 そうした過酷な運命は、人類をどこに向かわせるのか。「失わなければ、変えられない」という世界の理を誰より熟知し内面化させている男が、調査兵団を率いるエルヴィン・スミスであることは論を待たないだろう。人類の未来のためなら、一つの都市が廃墟になることもいとわない。人の命の重みを推し量り裁量するこの男は極めて有能である一方で、それが倒錯した転倒に陥る可能性も秘めている。

化け物を凌ぐために必要なら、人間性さえ捨てる

 そうして人間性を捨て去って生き残った人類は、もはや人類といえるのか。そんな人類にとって、世界は生きるに値するものなのか。この倒錯は、巨人を皆殺しにするためなら人類すべてが死んでもかまわないという窮極のところまで行きつきはしないだろうか。

 それでも多分、喪失と獲得の反復運動は際限なく繰り返される。巨人の跋扈する世界で、人は不可避的に何かを失い、そして何かを得ていく。その残酷な世界の理こそ、彼らがそこから越えでなければならない「壁」なのではないか。だから僕は、青春を失ったエレンたちは、捨てなければ変えられないという世界の理に挑戦するべきなんじゃないかと思ったりするんですが、どうでしょうか。

 

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*1:捨て去ること、というよりもそれを明確に意識してしまったことこそ二人の命運を分けたのかもしれないが。