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青春とは支離滅裂さである――『心が叫びたがってるんだ。』感想

小説 心が叫びたがってるんだ。 (小学館文庫)

 

 『心が叫びたがってるんだ。』をみました。なにこれエモい。青春と適切な距離がとれていない僕にまともな感想を書けというのは無理ぽよなのですが、とりあえず書いておきます。ネタバレが含まれます。

 教室に走るランダムな線

 「口から生まれた」なんて形容するくらいには、おしゃべりな少女、成瀬順。そんな多分どこにでもいて、成長するにつれてだんだん人並みに話すことが好きなおとなになっていったであろう彼女は、不幸にもその「おしゃべり」を呼び水にして不幸な出来事を起こしてしまう。そこから生まれたしゃべることを禁忌とする「呪い」は、高校生になっても強く彼女を縛っていた。これは彼女が、その呪いを振り払う物語。

 成瀬順が呪いを振り払うための儀式として設定されているのが、「地域ふれあい交流会」なるなんだかぱっとしない行事で、その実行委員に選ばれたことが、彼女と、彼女と同じく実行委員に選ばれてしまったほかの3人を変えていく。

 ぱっとしない行事の実行委員っていうチョイスが絶妙で、それが「誰もやりたがらないが誰かがやらないといけない」という状況を生み出す。「地域のおじいちゃんやおばあちゃんくらいしか見に来ない」という催しで陣頭指揮をとるインセンティブは、間違いなく、限りなくゼロに近い。これが学園祭だったらおそらくまったく話は変わってきて、「お祭りだから何かやりてえ」的な連中がいてもおかしくない、いやむしろいるのが普通って感じがする。これは僕の偏見ですが。

 しかし、この作品において、実行委員は誰もやりたがらない役目でなければならない。教員により強制的に名指しで「やらされる」ことになる、そういうものでなければならなかった。そうした意志を無視した強制こそ学校の理不尽といってもいい在り方の体現だから。そして、なによりも、それが不意に生じさせるランダムな線が、学校という空間が魅力的なものでありうる最後の希望でもあるから。学校とは、結局、「他人と一緒にいるところ」であるというのは『ブギーポップは笑わない』のあとがきにおける上遠野浩平の言葉だが、そうした空間だからこそ、不意の他者との出会いが生じる可能性が生じてくる。それこそが学校空間という息苦しい密室における可能性であり、希望であり、救いであると僕は思っていて、そして『心が叫びたがってるんだ。』は、「地域ふれあい交流会」なる変化球じみた舞台装置を用意することで、その可能性の在りようを示す準備を周到に整えたのである。

 「やらされる」んだけども、でもそれなりにきちんとこなさなければいけない役割。教員という、教室の上にたつ人間の、いわば神の手によって教室内の島宇宙に閉じていた彼女/彼らの間にランダムな線が走ったとき、ドラマ、いや青春の駆動する条件がまさに整うのだから。『心が叫びたがってるんだ。』は、そうしたランダムな線が引かれることによって生じる支離滅裂な人間関係の変容と、そうした支離滅裂な関係のポリフォニーのなかで生まれる希望の物語だ。それをファンタジーと呼んでもいいのかもしれない。

 

青春とは支離滅裂さである

 そうして引かれたランダムな線は、島宇宙内で安定していた人間関係を攪拌し、一種の支離滅裂さがそこに生じる。その支離滅裂さにドラマという枠が与えられるわけで、そうした一定の枠付けされた支離滅裂さのことを、あるいは青春と僕は呼びたい。

 青春は支離滅裂である。そのことは、監督長井龍雪、脚本岡田麿里、キャラクターデザイン田中将賀のトリオが以前に手掛けた作品のなかでも見出すことができる。『とらドラ!』においては北村祐作がいきなり髪を金色に染め上げるエピソードなどが象徴的だし*1、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』においてはゆきあつこと松雪集のネタキャラ化を決定的にしたあの行為など、いくらシリアスな意味が作中で付与されようが、常識的なテンションからは理解を絶する、極めて支離滅裂な行為であることに疑いの余地はない。

 そして彼らが描き続けた支離滅裂なものとしての青春は、『心が叫びたがってるんだ。』において、まさに主役といってもいい地位を与えられる。人間関係のもつれがなんとか解消されつつ、支離滅裂さが影を潜めていったかに思われたかにみえた、そこで生じる彼女にとっての一大事件。恋愛感情はあらゆるファクターを凌駕して、いきなりすべてを覆い尽くす。そうして「地域ふれあい交流会」の舞台は予定調和から一転、先の読めない支離滅裂なものとならざるを得なくなる。

 しかしそうした支離滅裂さは、ミュージカル「青春の向う脛」のうちにすでに含みこまれている。代役が必要になるわ緊張からアドリブしてみたりするやつが出てきたりするわ*2、演出自体も土壇場で変更されることになるわと、言ってしまえば支離滅裂になってしまった舞台を、そうした「仕組まれた支離滅裂」が、回収する。

 ヴェートーヴェンの『悲愴』と、ミュージカルにおけるスタンダードナンバー”Over the Rainbow”という、出会うはずのなかった名曲同士を、舞台の上で出会わせる。成瀬順と坂上拓実が引いた線。その支離滅裂さが、奇妙な、しかし心地よいポリフォニーを奏ではじめるクライマックスにおいて、すべての支離滅裂さは赦され、あるいはドラマへと昇華される。

 「ミュージカルには奇跡がつきもの」と教師は言う。それはこう言い換えられなければならない。青春には奇跡がつきものである、と。そんな夢物語を信じさせてくれるという意味で、『心が叫びたがってるんだ。』は僕にとってファンタジーなのですよ。

 

 支離滅裂な青春のなかで、それでも「言葉」を使ってわかりあおうとすることが大事、なんてことはあえて言うまでもないことだけれど、ひとつ僕がよいなあと思ったのは、みんなちゃんと「ごめんなさい」って口にすること。いまいち気力の感じられない男子も粗野な野球部も、みんなちゃんと謝罪を伝える言葉を口にすることができて、それこそが誰を傷つけるかもしれぬ「言葉」を使わなくちゃ生きていけない私たちの最低限の、譲ることのできないモラルだよね、みたいなことを思ったり。僕も「ごめんなさい」ってちゃんと伝えられる人間になりたい。

 

関連

 ミュージカル中のある演出についての考察的ななにか。

 

  学校空間という密室に逃走線が引かれる作品と言えば、吉浦康裕監督作品『アルモニ』。吉浦監督は、『アルモニ』のなかで限られた時間内に主人公とヒロインを接触させる=その間に線を引くことに苦労したとどこか(多分Twitter)でおっしゃっていたそういえば。

 

 「卵の殻を破らねば、雛は生まれずに死んでいく...」??? うっ、頭が...

 

 

 

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

「心が叫びたがってるんだ。」オリジナルサウンドトラック

 

 

 

【作品情報】

‣2015年/日本

‣原作:超平和バスターズ

‣監督:長井龍雪

‣脚本:岡田麿里

‣キャラクターデザイン・総作画監督田中将賀

‣出演

 

*1:とらドラ!』は竹宮ゆゆこの原作がベースにあること、ゆえにアニメスタッフがこの挿話を創作したのでないことは承知しております。念のため。土堂スタッフの作品の事柄、という事実確認以上の意味を与えているわけではないです。

*2:いや彼はそんなこと関係なくアドリブしたと思うんだけどさ。