映画『滑走路』をみました。Twitterで信頼のおける人たちが激賞していたので見に行ったんですが、期待にたがわぬ作品でした。以下、感想。
いじめられている友人を助けようとして、自身がいじめられるようになった中学生。過重労働と不眠に苛まれる厚生労働省の官僚。人生に悩む切り絵作家。まったく接点のなさそうな三者三様の物語。それらの奇妙な交わりを、我々は目にすることになる。
若くして自死した詩人の同名歌集に着想を得た青春映画。物語上の仕掛けを隠すため、画面はソリッドで抽象的。たとえば中学校を舞台にした少年の挿話では、中学校という舞台にもかかわらず、少年にかかわる幾人以外はほとんど画面上に存在感がない。彼と彼女の二人だけの場所、のような趣を感じさせるシーンもいくつもある。また、切り絵作家の女性の挿話では、カメラは彼女の家から出ることはほとんどない。
抑制的で、ほとんどの場面で環境音が印象的に拾われている音響とあわせて、この硬質な画面はそれだけでこの映画の魅力を構成している。そのうえで、そうしたルックによりかからず(よりかかってより叙情的な作品にすることもできただろうに)、そのルックをお話を語るうえでの必然のものとする、明確なストーリーラインがある点もまた、この映画の魅力であるように思う。また、非正規雇用などの現代的な問題を組み込みつつ、それに安易によりそうことなく、あくまで普遍的な青春映画たろうとする強烈な意思も感じる。この足腰の強さのようなものが、この映画の価値を高めていることに疑いはない。
詩人の経験を想起させる、いじめ、自死というモチーフは、この映画にあからさまなハッピーエンドを生じさせることを禁じている。ああ、この瞬間があったから彼の人生は救済されたかもしれないのだ、のような軽口を到底語る気にはならない。にもかかわらず、この映画をみたあとの感触はおどろくほどよい。これを映画的詐術といわずしてなんとよべばよいかわからないが、そうした詐術を駆動させる腕力がこの映画にはある、と思う。
そのことに大きく貢献しているのは、いじめられている少年と接点をもつ少女を演じる木下渓で、素朴でフラジャイル、なおかつはっきりとした強さを感じさせるたたずまいは、この物語で彼女だけは信頼してよいのだ、という印象を我々に残す。決定的なモーメントとして描かれる中学時代の挿話の演出は、上にも書いたようにほとんど異様なタイトさ・抽象性だが、それを支えるのは間違いなく彼女の存在感だと思う。飛行機を眺めやる二人、あるいは農道を歩く二人、そしてラストの別れ、それらをとらえるロングショットは悉く素晴らしい。同じく決定的である「手触り」を映したショットと同様、それは我々に要請される目のはたらきを先取しているのかもしれぬ。至近で生じる物事の尊さをとらえる目と、はるか遠景に輝きをみとる目。それが詩を詩たらしめるのだ。