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記憶の共犯者——『佐々木、イン、マイマイン』感想

映画チラシ『佐々木、イン、マイマイン』5枚セット+おまけ最新映画チラシ3枚

 『佐々木、イン、マイマイン』をみました。高校時代の友人から久しぶりに連絡があったんですが、それが『佐々木、イン、マイマイン』めっちゃいいぞ、という話だったので、これ自体が結構『佐々木、イン、マイマイン』っぽくてよかったかもしれません。以下感想。

  佐々木。級友。佐々木。かつて輝いていた男。佐々木。もうしばらく会っていない男。佐々木。すぐ全裸になる男。佐々木。卒業してから一度しか会っていない男。佐々木。家が異様に散らかっていた男。佐々木。おれたちの青春そのもの。

 東京、上京してしばらく経つ、役者志望の男が、旧友と偶然再会し、佐々木という名の旧友のことを思い出す。監督は内山拓也、主演は藤原季節。全体として、うまいかへたかと言われれば、うまくはない。台詞は生硬でどうにも演技くささが漂っている。しかし、その不器用さみたいなものが味になるタイプの作品でもあって、それがむしろ奇妙な魅力になっているのは美点だろう。

 映画には、我々観客の支えをまったく必要としないような、それ自体確固として屹立している作品というものがあり、そうした作品を我々は古典とか傑作とか呼びならわすこともあるだろう。一方で、我々とたくみに共犯関係を取り結び、我々がおのおの勝手にそれぞれの記憶を想起したりなんだりして、こちらとの関係が取り結ばれることで大きな魅力を放つ映画もあるだろう。

 この『佐々木、イン、マイマイン』はおそらく後者のタイプであり、またそのようにプロモーションもされていると感じる。この映画を語ろうとすると、否応なしに個人的な思い出だとか思い入れだとかを語りそうになってしまうので、それが非常にやばいなと思う。

 下敷きになっているのはレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』だろう、というのは明示的に示されている(作中で脚色されて演じられているものは(すくなくともわたくしの記憶の限りでは)原作の原型をほとんどとどめていない気もするけれど)。村上春樹が『長いお別れ』はフィッツジェラルドグレート・ギャツビー』を参照項にしていることを指摘しているのだが、『グレート・ギャツビー』の背景にアメリカ大陸のなかでの「上京」のモーメントが書き込まれていることを思えば、佐々木のなかにジェイ・ギャツビーの姿をみやっても大きく的外れともいえないよ思う。佐々木にとっての緑の灯がいかなるものかは判然としないが、それは我々にとっての緑の灯もまたそうだろう。

 なにか個人的な思い出を書き連ねそうになるのだが、それはしない。そうしたくなること、それ自体でわたくしがこの作品にあてられてしまったのだなと負けを認める次第であります。

 

 

 

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グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)