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舞城王太郎『暗闇の中で子供』感想、あるいは舞城自身による舞城

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

  ここしばらくなんとなく舞城王太郎の文章を読みたいという気持ちがあったのでなんとなく読んでいてなんとか空虚な心を満たそうと試みているのだが、それはともかく『暗闇の中で子供』が非常によかったので感想を書き留めておこうと思います。

 「おめえら全員これからどんどん酷い目に遭うんやぞ!」

 福井県西暁町で巻き起こった連続主婦生き埋め事件。政治家一家奈津川家の四男、奈津川四郎によって解決されたその事件は、奈津川家を襲う更なる地獄の序章に過ぎなかった。町で再び巻き起こる殺人事件と、その背後に見え隠れする、かつて蔵の中で消えた次男、奈津川二郎の影。奈津川家の三男、奈津川三郎を語り手に、狂気と混沌が現前する。

 舞城のデビュー作にしてメフィスト賞を受賞した『煙か土か食い物』の直後から物語は始まる、〈奈津川サーガ〉の第二章。『煙か土か食い物』で探偵役兼語り手を務めたのは四男の天才外科医四郎だったが、『暗闇の中で子供』ではほぼ休業状態の作家三郎が語り手を担う。突飛な連続殺人事件を題材にはしていても、現実世界を支配する法則というか、そういう部分で現実から明らかにはみ出すことはなかった『煙か土か食い物』と比べると、『暗闇の中で子供』は明らかに作品内のリアリティのレベルが異なるだろう、という描写が散見される。馬鹿でかくなった子供だったり、登場人物の死因がいつのまにか変わっていたり、そして最後の現実か虚構か判然としない結着だったり。

 そんなところから、これは奈津川三郎の手になるテクストであり、いわば作中作的な位置づけにあるんじゃないかとかいう見立てをネット上でみたのだけれども、そんなことはおそらくどうでもいいことだ。このテクストが舞城王太郎によって書かれたものか、奈津川三郎によって書かれたものか*1、それを決定づけることの可能な論拠が確固として作品内にあるようには思われない。リアリティのレベルが『煙か土か食い物』と大きく異なっている点なんかを論拠にこのテクストが奈津川二郎の手になるものである、なんて推察しているのを見かけたが、リアリティのレベルの変化とこれがそういうメタ的な構造をもつということになんの論理的な必然性もない。

 そもそも奈津川三郎によって書かれていても舞城王太郎によって書かれていても、そんなことはこのテクストの意味を決定的には変えたりはしない。なにせこのテクストはそもそも虚構だってことを僕らは知ってるんだから。それが単なる虚構なのか、それとも虚構の中の虚構なのか、そんな違いは些細なことじゃないか。

 作家を語り手にしたことで、フィクションとは、あるいは虚構とは何か、ということについて直截な言及が作品のなかでなされていて、しかもその言及はある意味で舞城王太郎のテクストに対する批評としても機能している。『暗闇の中で子供』は舞城王太郎の長編2作目で、刊行から約15年経った今でも文庫化されていないんだけれども、その理由にはそういう点が作用してるんじゃないかなー、とか思う。ある意味でこの『暗闇の中で子供』では、舞城が自身の手の内を直截に語っているというか、犯行手口を自白しているようなものだ、とすら思う。

 奈津川三郎はこう語る。

ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。*2

ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたものに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこで嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。*3

  批評家の佐々木敦は、舞城王太郎の作品に共通するテーマは「愛」と「勇気」である、と書いていて*4、僕はそれに「希望」を付け加えてもいいと思うが、そういう愛だの勇気だの希望だのという、ちょっと直接的に語ってしまったら陳腐でこっぱずかしいものを語るためにこそ、ミステリという道具立てを舞城は用い、そのなかで過剰に世界に意味を読み込みまくる探偵役を縦横無尽に活躍させているのだと思う。過剰な意味に溢れた世界に一つの線を引き、カオスをクリアカットなものへと成形してゆくことを通して、愛とか勇気とか、そういうものがいかに大事なのか、素晴らしいのか、輝いているのか、そんなことが見えてくる。

 愛とか勇気が大事なんてことはアンパンマンに言われる前からずっと僕らはわかっているのだが、悲しいことにそれに気付けない、あるいは気付かないふりをしてるんだ。それはそれが大事だってことがあまりに当たり前で、当たり前のことを再確認するのはなんだかこっぱずかしくなっちゃうからなのだ。だからそれが大事で素晴らしくて輝いてるってことを僕らが理解するためには一度狂気とか混沌とかを経由しなければならなくて、だから舞城はそのテクストのなかでとんでもない仕方で人間をぶっ殺したり、ひどい目に遭わせたりするんじゃないか。

 真実を語るための嘘、というのが舞城自身による舞城への批評で、それは『ディスコ探偵水曜日』とか、その後の長編にも共通しとるんじゃないかな~みたいなことを思ったりしました。はい。

 

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なんかピンチョン読んだ時もこんなことを思ったりしなんだけれど、それは僕の頭が足りないがゆえに、無限に豊かなはずのテクストからそういうことしか導けないのかな~なんてことも思ったりするんですが、まあ、それはそれとして。

 

ディスコ探偵水曜日』も再読したいんですけどね。

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

*1:いや現実的には舞城王太郎が書いているに違いないんだけどさ

*2:p.34

*3:p.35

*4:佐々木敦『ニッポンの文学』