宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

東京、地元、豊島ミホ

やさぐれるには、まだ早い!<やさぐれるには、まだ早い!> (MF文庫ダ・ヴィンチ)

  エルロイ&ブルー@ellroyandblueさん激推しの豊島ミホやさぐれるには、まだ早い!』を読みました。豊島ミホは高校生の時分に『檸檬のころ』ともう一冊読んで以来だったんですが、いやーエッセイもよかったです。以下感想。

  『やさぐれるには、まだ早い!』にまとめられたエッセイは、フリーペーパー『L25』に連載されたもの。身辺雑記的な内容が中心で、なんというかブログみたいな感触があって、ぱらぱらと読んでいけました。僕は寝る前にちまちま読んでいこうかなと思っていたんですが、存外にはやく最後まで頁を繰ってしまった。

 身辺雑記とはいえさすがは職業作家、桜を眺める目線に無数の記憶を重ねてみせるてつきはまさしく作家の目だなあと感嘆するし、過去のエピソードを現在の語りに的確に接続してみせるあたり、『檸檬のころ』のエモーション喚起力ってのはこういう記憶力(あるいは創作力)からきてるのかなーとか思ったりする。

 エッセイ自体について僕はそれほど語る言葉を持たないのですが、なんでここで感想をわざわざ書こうと思ったのかというと、これが「東京に出て、そして地元に戻る」という、まさにその運動の刻印が焼き付いているから。エッセイのなかでは秋田から上京してきた著者のおのぼりさんエピソードが散見されるのだけど、時系列順に配されたこのエッセイ集のラスト付近で、著者は東京(たぶん正確には東京じゃなくて首都圏だけど)から生まれ育った場所へと帰る。

私の自由な時代が終わる。田舎にかえっ帰ったからといって嫁に行ったり就職したりするわけではなし、むしろ今まで通り好き勝手な生活をさせてもらうつもりだが、それでも、生まれた土地に戻るということは、ひとつ決定的な自由を失うということだろう。前のほうにちょっと書いたけれど、「どこにも行けて、なんにでもなれる」という状態を、終わらせるのだから。
でも私は、もう「何か」にならなくていい。田舎町の、私がいい。

 この唐突ともいえる帰郷の理由は明示的には語られない。この語らなさは本書所収のほかのエッセイでも随所に感じられるところであって、身辺雑記という「自分語り」を行いながらも、明らかに語りたくない、語るべきでない、語る意味がないものを露骨に語っていない、という感じをうける。「これについては書かない」という言明が随所でみられるからこそ、その語らなさに目が行くという気がするのだけど。

 でもその語らなさゆえに、大学進学をきっかけとした上京に始まり、そしてこのエッセイで語られる帰郷に終わる物語を想像する余地が生じているという気がして、それがなんというか抽象的な行きて帰りし物語へと豊島ミホの物語を回収せしめる契機を生じせしめていると思うわけです。東京に出て、再び地元へ帰るその物語にはっきり言って、無数の「東京に出る若者たち」の物語を重ねないわけにはいかないわけですよ。東京に出る若者たちの一人である僕にしてみれば、豊島ミホの物語は俺が辿るかもしれなかった/辿るかもしれない物語でもあるわけで、まあなんというか寝る前にいろんなことが頭に去来したんですが、そのような自分語りはこの危険なインターネットでは慎むことにします。

 

 しかし豊島ミホの物語にはもちろん続きがあって、帰郷2か月後には「しかしぶっちゃけ、田舎、もう飽きた。」*1とぼやく彼女は、現在また東京へと戻っているようです。wikipedia情報によると。その往復を突き動かす力のことを、僕は強烈に知りたい。

 

 そこらへんの事情はこの本に書かれてるみたいです。

 

  かつて地元にいて自分が東京に出るということがリアルな感覚をともなっていなかった僕が読んだ『檸檬のころ』と、実際に東京に出た今の僕が読む『檸檬のころ』とではまったく異なる感情が生じるのでは、という気がするので再読の機運が高まっています。実家からもってくりゃよかったな。

檸檬のころ (幻冬舎文庫)

檸檬のころ (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

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  豊島ミホ、豊島区に住んでたからという理由でペンネームをつけたっていうのを今日知って無駄な親近感が発生しました。

作家の読書道:第55回 豊島 ミホ

 

*1:p.205