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十年後にはなくなっているかもしれない場所のこと――国立新美術館「新海誠展 「ほしのこえ」から「君の名は。」まで」感想

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 国立新美術館の「新海誠展」に行ってきました。『君の名は。』公開以前にこんな企画展がこんな規模で催されるとは想像もしてなかったので、いやはや先のことはわからんなあと。以下感想。

  構成としては、副題にもあるように『ほしのこえ』から『君の名は。』まで、新海作品を年代順に辿っていくような感じになっていて、映画を中核にしつつ、CMでの仕事なんかも拾っている。ゲーム関連の仕事に関しては年譜では触れられているものの展示には影も形もなく(アザ―ワークスと題された小品を扱った一角はCMやショートアニメ中心)、映画の仕事の「正典」化と裏腹に、ゲーム会社でのキャリアを切り捨てる形で「正史」を語っているようにも思えるこの感じは、コアな新海ファン的にはどうなんでしょうね。僕はコアな新海ファンではないですけども。図録の略歴にもゲーム関連の仕事はスルーだったりするし。とはいえ、やっぱり権利関係の処理が大変なんだろうなとは思うわけですが。

 しかし『君の名は。』をある種の到達点、集大成として新海誠という作家のあゆみを辿っていく構成はクリアで、そこに容易く「進歩」とか「発展」とか、そういう類の単線的な図式が違和感なくこちらにはいってくるわけです。展示されているのは原画であったり背景美術なわけですけど、個人的な感触でいえばキャリアの初期では明らかにキャラクターを背景美術が圧倒し、いわば主演と助演の関係があからさまに逆転しているように思われる。この違和感が醸成する独特の雰囲気が、新海作品の大きな魅力の一つであったように思う。

 それが、『君の名は。』において、背景美術と同様の強力な魅力を放つキャラクターを造形し、そして無言のなかに雄弁を内在させ強力な存在感を放つ不動の背景と、見事に躍動するキャラクターとが拮抗することで、今までの作品とは一線を画した雰囲気を纏ったのではなかろうか。だからやっぱり安藤将司をはじめとするジブリ出身のアニメーターの持つ、キャラクターに魂を吹き込んでしまう魔法の威力は凄まじいと言わざるを得ない。

 一方で、新海作品の背景美術が全面的に素晴らしいかといえば決してそういうわけでもなく、『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』をはじめとする現実世界を基盤に据え、それを美化した背景は強烈な異化効果を生み出している一方で、『星を追う子ども』での異世界は、現実にはありえない光景にもかかわらずありきたりな風景の域にとどまっている、もっといえば宮崎アニメ的な異世界のコラージュのごとき雰囲気を纏う。『雲のむこう、約束の場所』でのコントロールセンター的な場所なんかもSFアニメないしロボットアニメ的お約束のカテゴリーに収まるような造形だったという気がして、つまり現実空間を基盤にしていない世界を相手取ったとき、新海作品の魔術は一気に色あせてしまう、という感触がある。それは宮崎駿という作家と、彼の生み出した世界の巨大な引力にこちらが未だに囚われている、というだけなのかもしれないのだけれど。その意味で、『星を追う子ども』と『メアリと魔女の花』にはなんとなく親近性を感たりもする。

 『星を追う子ども』以降、新海は再び現実を基盤にした世界のなかで物語を語る方向へと回帰したわけだが、それは商業的な要請であるとか無数のファクターが要因となっているとは思うのだけれど、いま・ここと切り結ぶ力を物語に宿し、多くの人間と共振したことを、私たちは知っている。『ほしのこえ』が話題になっていたころ、大塚英志東浩紀が対談のなかで、現実から撤退した内向的な作家として庵野秀明と並んで新海誠をあげていたのだけれど*1、2016年は奇しくもこの二人の作家がその批評を裏切ってみせた年になったわけだ。

 この企画展でいちばん印象に残ったのは、新海誠公式MADみたいな激しくエモーショナルな映像以上に、『星を追う子ども』のあと、東日本大震災を経て書かれた『言の葉の庭』の趣意書だった。「不安定な場所を――十年後にはなくなっているかもしれないこのアスファルトの上を、それでも日常として歩くこと。その不思議さ、人々の奇妙な強靭さ」こそが、『言の葉の庭』を作らせたのだと新海は言う。だから、『言の葉の庭』は揺れる大地をそれでも歩く足の物語なのだと。そしてその次に語られた『君の名は。』は、消えゆく世界でそれでも走って出会おうとする物語だった。

 キャリアの初期から新海作品には喪失の感覚とが執拗に織り込まれていたわけだが、極めて私的な感覚であったそれが、時代と奇妙にシンクロし、いま・ここに生きる多くの人の心をとらえた。なんとなく、新海誠のキャリアとは、いま・ここに辿り着き共振するまでの歩みとして、自分のなかで像を結んだ気がする*2。その意味でこの企画展にきてよかったな、と思う。願わくば、新海監督が次なる作品で、「現代日本の」いま・ここを超え、より大きなスケールで、その魔術をみせてくれたらいいなと思う。

 

 並行して国立新美術館で開催されている安藤忠雄展のなかで、安藤が建築はいつかなくなるものだけど記憶のなかに永遠に残ってほしいみたいなことを語ってて、そうか、瀧くんは安藤忠雄だったのか…となりまして(?)、これはまたなかなかおもしろい符号だなあと思ったりしました。

 

関連

君の名は。』感想。 


「十年後にはなくなっているかもしれないこのアスファルトの上を、それでも日常として歩くこと。その不思議さ、人々の奇妙な強靭さ」の物語って、それは『氷菓』なんだよな。

 

amberfeb.hatenablog.com

 

 

 

*1:『リアルのゆくえ』。ちょっと引っ張り出してくるのが面倒なんで正確な言い回しはちょと確信してませんがこういうニュアンスだったはず。

*2:それは奇しくも新海誠が愛読していたという村上春樹のキャリアを早回しで辿っているようにも思える