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子どもと大人、終わらないエクソダス――『OVERMANキングゲイナー』感想

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 ここひと月くらい、『OVERMANキングゲイナー』を見返してたんですが、思い出補正で美化されてたとかではなくマジで半端なく面白かったのだなと再確認しました。以下、感想。

  たぶん、我々にとっては未来。ユーラシア大陸北部に住む人々はドームポリスとよばれるドーム型の都市のなかで寒さをしのぎ、インフラをその手に握り人々を掌握するシベリア鉄道公社の支配下に置かれていた。その支配の手から逃れ、「ヤーパン」なる地へと向かう行為、エクソダス。そのエクソダスの請負人たるゲイン・ビジョウと、なし崩し的にそれに巻き込まれた少年ゲイナー・サンガ。この二人が出会いが物語の始まりを告げ、ゲイナーはロストテクノロジーの産物であるロボット、オーバーマンキングゲイナーを駆って戦うことになる。

 事件と事態が忙しく進行し続け、息つく間もなくストーリーが展開していきまったく退屈しない。それは物語の中心をなすのが、巨大な街をロボットで牽引し、理想の土地ヤーパンを目指す逃避行「エクソダス」であることがおそらく大きな要因で、シベリア鉄道公社という支配と制御の代理人に対抗するためには、ピープルは止まらず走り続けなければならない。そのエクソダスという運動が物語と作劇を駆動させているがゆえに、活劇としてのダイナミズムが失われることもない。つまりただただドラマの展開とアクションに身を委ねることの快楽がここにはある。

 そうしたエクソダスの運動のなかでは様々なファクターが見出せるが、なかでも中核をなすのが「子ども」と「大人」の葛藤だろう。ここで「子ども」の側にはゲイナーやシンシアの二人の主要人物がいるのに対して、「大人」の側にはエクソダスを敢行するヤーパンの天井の人間たちやシベリア鉄道警備隊の面々などを位置づけることができる。その意味で、描写の多様性・多面性という意味では明らかに「大人」の側の比重が大きい、という気がする。

 その大人の代表例がエクソダス請負人たるゲインであることは当然だが、それ以上に作中の「大人」を象徴的に体現するのはむしろアデット・キスラーではないか。アデットの登場は鮮烈で、第1話でいきなりゲイナーを逮捕し雑居坊へとぶち込む。ドームポリスのピープルが秘密警察めいたシベ鉄の抑圧に晒される存在であることをあっという間にこちらに印象付ける場面であり、1話の終盤における「大人のやることか!」というゲイナーの非難を「大人だからやれんだろ!」と一蹴するやりとりからも、まさに彼女が「大人」と自己規定し振る舞っている自負が滲む。しかし彼女はその後、異様にあっさりエクソダスを阻止する側から実行する側へと鞍替えし、当然のようにシベ鉄と銃火を交えるようになる。

 このよくいえば臨機応変な、悪く言えば自己中心的で身勝手な振る舞いこそ、『キングゲイナー』における大人が「大人」たりうる条件なのではなかろうか。アスハム・ブーンは自身の目的をその都度変え、そのたびごと組織や部下をいいように使うことでそれを躊躇なく成し遂げようとする。ゲインも、旧友の敵討ちのために「背を向けて逃げる相手は撃たない」という自身の信条を曲げて殺人を犯すし、未遂に終わったとはいえ、ゲイナーが彼女を助けようと試みているのを知りつつ、事態の収拾のためシンシアを殺害しようとさえする。そのほか、作中の大人たちの臨機応変・身勝手な振る舞いは数え上げればきりがないだろう。『キングゲイナー』における「大人」の条件はたぶん、自身の信条や立場をアドホックに切り替えられることなのだ。

 どんなことが起ころうが生きるためにその都度対応していく、していかなければならない大人たちの強靭さと狡猾さ。ゲイナー・サンガにはそうした狡猾な「大人」の資質は備わってはいない。同じ年頃のサラ・コダマにはそれが半端な形で備わっているのとは対照的に(彼女が大人として半端なのは、最終盤におけるアデットとサラ、この二人の口づけの反復がまったく対照的な結果を招いたことに象徴されている)。しかし、『キングゲイナー』は、単純に「ゲイナーが大人になる物語」を語りはしなかった。オーバーデビルというさしあたって最強の敵を打ち倒して危機を打開する、すなわち事態の収拾をもって物語は終わる。この事態の収拾に、単純に「ゲイナーの成長」というモーメントを読み込むことはできないような気がするのだ。もちろんゲイナーはエクソダスのなかで変わっていった、しかしそれは「大人」になったのでもなく、しかし「子ども」性を突きつめたのでもなく、あるいは「大人」でも「子ども」でもない第三の道を選び取ったのでもなかった。あえていうならば、第三の道に至る途上にある、というのが適当かもしれない。ヤーパンへのエクソダスが未だその途上にあるのと同じように。

 このようにして、「終わる事件」と「終わらない物語」を語ってみせ、その第三の道の探求こそ我々に課されたエクソダスの宿命である、と突き付けてみせる、そういう作品だったと、いまになって思う。

 

 

リボルテックヤマグチ No.07 キングゲイナー

リボルテックヤマグチ No.07 キングゲイナー

 

 

 いまは∀を視聴しています。

 

【作品情報】

‣2002-3年

‣総監督:富野由悠季

‣原作:富野由悠季

‣シリーズ構成:大河内一楼

‣キャラクターデザイン:中村嘉宏西村キヌ吉田健一

メカニックデザイン安田朗山根公利吉田健一

美術監督池田繁美

‣音楽:田中公平

‣アニメーション制作:サンライズ