宇宙、日本、練馬

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この道は、必ず彼方へ続く――『宇宙よりも遠い場所』感想

 

TVアニメ「 宇宙よりも遠い場所 」 オリジナルサウンドトラック

 色々な人に勧めていただいていた『宇宙よりも遠い場所』をようやくみました。ありがとうという気持ちです。以下、感想。

  我々は、日々、多かれ少なかれ何処かと何処かのあいだを移動して生きる。自宅から学校へ。あるいは職場へ。あるいは気晴らしにいつもの公園へ。あるいは映画館へ。もしくは、寝床から台所へ。そうして日々の我々の移動の集積として、おおよそ生活空間とでもいうべきものが立ち現れる。寝て起きる場所、日々勉学に励む場所、あるいは生活の糧を得る場所、気晴らしのための場所。しかし時折、我々はその生活空間を抜け出し、日々の日常を過ごすにあたってはおおよそ足を運ぶ必要のない場所にまで移動することがある。それを我々は、旅と言い慣わす。

 『宇宙よりも遠い場所』にとって、この旅が主要かつ最大のモチーフになっていることは、直ちに了解されよう。そしてその旅においては、位相の異なるふたつの旅が重なりあうことで、強烈な輝きをまとっている。

 そのうちの一つは、まず何よりも、日々の生活世界の重力から抜け出して彼方へと向かおうとする女子高生の旅である。偶然の連鎖で出会った、四者四様の女子高生たちが、共通の目的に向かう旅を共にする。四人の生きるテンポはあからさまにずれている。南極という世界の果てに極めて強く執着する少女もいれば、ただ漠たる「ここではない何処か」に生きたいという思いだけ抱えた少女もいる。ずっと一人で歩いてきたものもいれば、一緒に歩いてきた仲間に裏切られたものもいる。

 そうした歩幅のずれをうちに含みつつ、旅という時間は流れ、そして一歩一歩踏みしめた足によってこそ、周りの風景は次第に様相を変えてゆく。群馬から始まった旅は新宿を経由してシンガポール、オーストラリア、そして宇宙よりも遠い場所へ。その歩調が偶然に重なる瞬間が何度も訪れ、その喜びは都度画面を満たすが、それでもなお、それぞれがそれぞれのテンポで、しかし一緒に歩いてゆく。

 『宇宙よりも遠い場所』の映し出すのは、この偶然にも同じ場所を目指す仲間となった少女たちが、まさにその偶然ゆえに生じることども、それが引き起こす瞬間瞬間の楽しみやよろこび、あるいは葛藤や悲しみに、真摯に向き合い続ける姿である。世界の果て=南極なんて、四人の少女のうち三人にとって、あるいはそれを眺める我々にとって、そこに足を運ぶ必然性も必要性もない。しかし、それでもいいのだ。誰かがそこに辿り着きたいと強く願ったとき、そこに強烈な輝きが宿る。その輝きに魅せられて、その場所に自分もまた辿り着きたいという願いがほのかに宿ったとき、必然性や必要性などという些末な理屈は投げ捨てられ、そして旅が始まる。玉木マリにとっての旅がそうして始まったように、我々の旅もまた、そうして始まってよいのだ。

 そのような四人の旅――それは無論のこと、我々の旅でもある――という具体的な運動が、『宇宙よりも遠い場所』を駆動させている。しかしそれは、より抽象的な、もうひとつの旅がその足場となっている、と言いうる。その旅とはすなわち、歴史という巨大な流れのなかをひたすらに歩んできた、人類の旅とでもいうべきものである。

 玉木マリは、日々電車に乗って学校へと向かう。彼女が学校には向かわない、逆向きの電車に乗ったとき、この物語は始まるといっていい。それでは、なぜ彼女は電車に乗ることができたのか。電車に乗る、それは現代に生きる我々にとってあまりに当たり前のことであり、「なぜ彼女は電車に乗ることができたのか」などとは我々はふだん問うたりはしない。それでもこの無様な問いに、あえて答えようとするならば、それは我々が顔も名前も知ることのない、何処かの誰かが、そこに線路を敷いたからなのだと、答えることができる。

 たとえば150年前、そこに線路は敷かれていなかった。群馬から東京へと向かうためには、いまとは全く質感の異なる空間を、いまよりはるかに長い時間をかけて移動しなければならなかった。だから玉木マリの旅が始まったのは、名も知られぬ何処かの誰か――その人もまた、遠くに行きたいと願った一人なのかもしれない、そうした誰かがその道を作ったからなのだ。

 彼女たちの旅は、そうした無数の先人が敷いた道の上を、時折そうした先人の偉業の残り香を感受しながら、進むものだった。小淵沢報瀬が世界の果てを目指すきっかけである母の姿に、そうした無数の名もなき人間たちの影を見ることもできよう。電車、新幹線、飛行機、砕氷船、ヘリコプター、雪上車。彼女たちの旅は、人類の英知の結晶に彩られ、助けられつつ進む。

 とりわけ、氷を砕いて前進を繰り返す砕氷船の姿。徒労とも思えるほどのかすかな前進を、無数に繰り返し、そして目的地へと到達するその姿は、南極観測隊員たちの暗喩でもあり、そしておそらく、途方もなく長い時間のなかを、ほんのかすかな前進を繰り返し「いま」に至った人類の姿をそこに見出すこともできる。そして人類の開拓した電子の海は、はるか遠く離れた誰かとこの私とをいともたやすく繋いでみせ、その抽象的な郵便空間は、届かなかった手紙、出されなかった手紙すら、いつか届くかもしれないという夢を垣間見せる。

 我々の傍らには道がある。人類があまりに巨大な時間を積み重ねて作り上げた、はるか遠くまで続く道が。我々はそこを歩いてゆくことができる。我々は普段、あるいは旅の時間にあってなお、適当なところまで行ってた後、引き返してもとの場所に戻る。しかし、我々は忘れてはならない。この道は、必ず、未だ誰もみたことのない彼方に続いているのだということを。

 

 

 

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 どうも『リズと青い鳥』が他作品の解釈のなかに密輸されてる感があっていけません。

amberfeb.hatenablog.com

 

 

 

【作品情報】

‣2018年

‣監督: いしづかあつこ

‣原作: よりもい

‣シリーズ構成・脚本:花田十輝

‣キャラクターデザイン: 吉松孝博

美術監督:山根左帆

‣音楽:藤澤慶昌

‣アニメーション制作:MADHOUSE