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世界の終末、その究極形——劉慈欣『三体』三部作感想

三体Ⅲ 死神永生 上

 『三体III 死神永生』を読み、度肝を抜かれました。以下、『三体』三部作の感想を書いておきます。作品の核心に触れますので、未読の方はブラウザバックを強く薦めます。

 20世紀、文化大革命に揺れる中華人民共和国。その奥地に設置された、巨大な、あまりに巨大なアンテナ。最高機密に属するプロジェクトが進行するその基地が、すべての始まりであった。そのアンテナを通して発信されたメッセージが異星人に捕捉されたとき、人類の歴史はまったく新たな次元へと踏み出してゆく。

  2008年、北京オリンピックが開催された中華人民共和国で出版された本書は、アメリカ合衆国においてケン・リュウという大立者の手を借りて、2010年代のSFにおけるひとつの事件となった、と要約してもおおよそ嘘にはなるまい。その一巻が日本語訳されたのは2019年。そして完結編たる『死神永生』が今般ようやく日本語でも読めるようになり、そしてこの『三体』三部作(あるいは「地球往事」三部作)の全容をようやく我々は知ることになったわけだが、1巻の時点で、これほどのスケール、これほどの時間・空間的規模にまでこの物語が拡大していくとは、正直いって予想もしなかった。

 ファースト・コンタクトという、語りつくされた題材に、センス・オブ・ワンダーに満ちたディティールを施して、ここまでの高みに到達してしまうか、という驚き。姿なき敵の恐怖におののく『三体』や、異星人との直接対決を描く『黒暗森林』も無法におもしろかった。とりわけ、選ばれし4人の「面壁者」たちが人類救済の希望を託され、それぞれ異星人を打ち破るため異様なスケールの計画を遂行しようとする『黒暗森林』は、(なんとなく『東のエデン』との共時性を感じたりもして)とにかくおもしろく読んだのだが、『死神永生』の豪華絢爛ぶりは、まったく別の領域にこの作品世界を押し上げている。

 木星の近傍に位置するコロニー群や、多次元空間や光速航行、マイクロブラックホール、そしてほんのささやかな小宇宙。それら一つ一つが長編小説のネタになりうるのではないか、というガジェット群をこれでもかとぶちこんで物語を推進させていくのだから、退屈などしようもないし、その推進力があればこそ、宇宙の熱的死という、ほとんど究極ともいえる結末まで、我々は苦も無く到達するのである。

 そう、この『三体』三部作は、幾度もその危機を乗り越えるカタルシスを我々に与えてくれるにもかかわらず、結局のところ「世界の終わり」を描いた小説であり、その意味で、極めて濃厚に中国語圏の時代の空気を吸い込んだ、すでに歴史的といっていい作品なのだと思う。

 文学は近代化の過程のなかでのみ意味がある、近代化の葛藤こそ文学の主題である、というようなことを村上龍は語っていて、それはあからさまに偏狭な文学観といってもいいと思うのだが、しかし同時に、ある種の「世界の終わり」を迫真性をもって描き出しうるのは、ある特権的な時空間の空気を吸っている作家だけだ、という気もする。アーサー・C・クラークが『幼年期の終わり』で旧人類の終局を描いたのは、第二次世界大戦後、アメリカ社会が絶頂にある1950年代だったのだし、小松左京が1970年の大阪万博に携わるさなかに『日本沈没』を構想していたように。

 『三体』三部作は、そうしたマスターピースと比肩する、歴史的傑作だと思う。太陽系の終焉のヴィジョンの鮮烈さに、50年後、100年後の人類もきっと心奪われるに違いない。これは明らかに特権的な時間・空間に、極めて才能ある書き手が存在したことによる奇跡の産物だと思う。そのような書物に触れることのできた喜びに、いまはただ満たされています。

 

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 大森望による解説で『シン・エヴァ』との同時代性みたいなことが言われてましたが、無限に世界の外縁をぶち広げていく『三体』と、あくまでひとのこころに果てしなく沈降していく『エヴァ』とでは、エネルギーのありようはともかくベクトルが真逆という気がするのだよな。それは作家の資質によるものというより、やはり「近代化の葛藤」の空気を直に吸い込んでいるかいなか、という作家の位置関係の問題である、という気がします。なんだか素朴な社会反映論になってしまいました、反省。

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  劉慈欣が秒速好きらしいの、わかる...というか『死神永生』のセンチメンタリズムになんか納得感が生じました。

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