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この風景を眺めているのは誰か——『薄暮』感想

薄暮

 dアニメストアで『薄暮』をみました。以下、感想。

 福島県いわき市東日本大震災の傷跡が、人の心にまだ強く残るころ、小山佐智は家から少し離れた高校に進学した。そこで音楽部に入部し、文化祭の発表に向けてヴァイオリンの練習に取り組む彼女は、ときたま帰り道に友人たちと別れ、ひなびた場所にあるバス停まで散歩し、そこで薄暮の風景を眺めることを楽しみにしていた。偶然、絵の題材を探してその周辺を訪れていた少年と知り合ったことで、彼女の生活に別の色が萌そうとしていた。

 京都アニメーションで演出家としてその名を知らしめた山本寛が、紆余曲折を経て制作したアニメーション映画。『Wake Up, Girls!』の近岡直によるキャラクターデザインはどことなく堀口悠紀子の影響を感じさせ、それで音楽部の面々のかしましさからなんとなく『けいおん!』のことを想起したりもする。

 しかしこの映画の主役はそうしたキャラクター以上に、福島県いわき市のロケーションであり、そこで生々しく生きられた災後の時空間の切れ端だろう。東北というトポスについては『Wake Up, Girls!』からの明確な線があるが、背景の前景化という意味では『秒速5センチメートル』などの新海誠監督、コミックス・ウェーブ・フィルムの諸作品との近接性を強く感じもする。絵を描く少年がこの風景を描いておきたい理由をつぶやくとき、それは明確にこのアニメの作り手の意志と重なるのだろうと思う。

 いわき市のさびれたバス停付近の、とりわけタイトルにもなっている黄昏時の風景はそれだけで自立する強度があると感じるが、一方で序盤にヒロインのモノローグでそれを明確に「美しい風景」と意味づけしていることは、その強度を信じきれなかったのか、あるいは山本寛という作家がもはや観客をそれほど素朴に信じられないからかと邪推する。このモノローグで、言語によって背景をかっちりとした意味と接続してしまうことは、過剰な説明であるだけでなく、この作品の背景にある種の余計な負荷を与えているという気もするのだ。

 たとえば『秒速5センチメートル』では、基本的にキャラクターは美しい背景にことさらに言及したりしない。それは彼ら・彼女らががまさに自明なものとして生きている世界が美しいからであり、彼ら・彼女らがそこに美しさを感受するためにはなにか特権的な出来事が必要だからだ。一方で、『薄暮』のヒロインが身近な世界に美しさを見出しえるのは、彼女がそこにまさに生きる生活世界としてその場所を感受しているのではなく、観光客としてそこを訪れているからではないか、という気がする。

 それは外部の人間である山本寛という作家の眼が、内部の人間たるヒロインに密輸入された結果では、とも。それは、なんというか災後の時空間に生きられた生活のスケッチというこの作品の骨格と、どうもかみ合わないのでは、という気がやっぱりするのだ。その意味で、この過剰なモノローグは作品としてのすわりを悪いものにしている、という感じがする。この風景を眺めているのは誰か、それが問題なのだ。

 

 と、ここまで書いておいて、でも「観光客」的な目線で地元の高校生がその場所を眺めていることに難癖付けるのはどうなのよ?という気もしてきたんだけど、でも少なくともわたくしが地元をそのように眺められるようになったのはそこを明確に離れたからなんすよね。それが地元を離れたからなのか、スマホのカメラが高性能になったからかは、ちょっとわからないけど...。

 

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もう個人の趣味嗜好ですけど、作品世界の登場人物がその世界への意味づけを語ってしまうともう「お話」がたたまれてしまうんや...という気もすんのだよな。

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かつての『涼宮ハルヒの憂鬱』「ライブ・ア・ライブ」から、京都アニメーションの『響け!ユーフォニアム』とは別の可能性として分岐した可能性の一つ、という気もしました。まあ『Wake Up, Girls!』みてないのがあれなんですが...。

 

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