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その風景は何を語ったか?――『詩季織々』感想

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 『詩季織々』をみました。以下、感想。

  私たちは彼らのことをどれほど知っているだろうか。この島国にほど近い、まさに変化と発展のただなかにあるという国のことを。その場所では、風景はどのように、何を語るのか。

 新海誠作品を世に送り出してきたコミックス・ウェーブ・フィルムが、中国の三都市を主要な舞台に、3篇の短編作品を語る。風景描写の妙やいくつかのモチーフはまさしく新海作品を想起させるが、各篇にそれぞれの監督の個性が滲んでもいる。それがプラスに作用しているかといえば、それはちょっと首肯しかねる、という気がする。

 とりわけ、北京で働く青年が、自身の人生の思い出とビーフンの味と共に回顧する最初の一篇「陽だまりの朝食」は、全編を偏執的ともいいうるほどに過剰なモノローグが覆っていて、映像といま・ここの私のあいだに相互作用が生まれる以前に、意味と解釈を与えられ続けるような違和感がぬぐえなかった。

 モノローグの強い存在感は、日本アニメのなかでままみられるものであるようにも思う。例えば『四畳半神話大系』はそのモノローグによってお話が駆動するような作品であると思うのだが、原作者の森美登美彦の漢語調の文体を見事に音に移し替え、ある種の音楽的な心地よさがそこに宿っていたりする。これと比すると、「陽だまりの朝食」のモノローグはあまりに朴訥で、画面に映るものの説明以上の意味を宿していない、という気がする。

 あれだけおいしそうなビーフンが画面に映っているのだから、それをモノローグで説明するのは野暮ってものでしょう。あの匂い立つようなビーフン、(私たちにとってはそれを知りもしないにも関わらず)郷愁を掻き立てられる風景、そうしたものをモノローグの呪いから解き放ち、画をして語らしめる、画の力を信じて賭ける、それに値する画面の可能性はあったように思うので、このような語りが添えられているのは、ちょっともったいないなあと思いました。

 そのモノローグはある種の新海誠への目くばせと読むこともできようが、そうした新海誠へのリスペクトとオマージュを強く感じさせたのが、三篇目の「上海恋」だった。距離に引き裂かれる男女というモチーフについては言うまでもなく、致命的に遅れて届く言葉は『ほしのこえ』を想起させるし(カセットテープというガジェットは特にいいなあと思いました。『きみの声を届けたい』と結構似たセンスのような。)、彼と彼女の場所としての歩道橋は言うまでもなく『君の名は。』の記憶を喚起する。

 一方で、上海の石庫門という、おそらく上海を知る人にとって(あるいは監督をつとめたリ・ハオリンにとって)独特の感情を喚起するのではないかと推察される記憶の場を持ち込むことで、新海誠作品の重力圏と大陸の磁場とが溶け合った雰囲気が醸し出されてもいる。ラストの『秒速5センチメートル』の記憶に対する「裏切り」(といってもいいような展開)を支えるのは、こうした記憶の場のもつ力なのかもしれない。

 中国出身の監督がそうした新海的なものと格闘する一方で、長年新海監督とともに仕事をしてきた竹内良貴監督による第2篇「小さなファッションショー」は、新海的な重力からもっとも軽やかに跳躍していた気がするのだが、中国という場のもつ磁力がフィルムに宿っていたかというと、当然他2篇よりは薄い。(もちろんだからダメとかいうことではない)しかし、主役を演じた寿美菜子さんの馬力が半端ではなく、その点でも他2篇とは魅力のかたちが異質であるなあと思います。

 ここで、冒頭に提起した問いに立ち戻るのならば、新海作品のようには、風景が何事かを語るということはなく、風景自身が自立して物語を圧倒していたかつての新海作品のようにではなく、それらをあくまで背景として、いま・ここで生きる私たちのことを真摯に語ろうとしていたのだろう、と。コミックス・ウェーブ・フィルムが、新海的なものを梃に、ポスト新海的なものを手探りで探った、そういう作品であったのかなあと思います。はい。

 

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