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宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

桜のなかに君を読む――『秒速5センチメートル』感想

秒速5センチメートル [Blu-ray]

 なんとなく見てしまった『秒速5センチメートル』のせいで感情がいかんともしがたくなり寝るに寝れない状態に陥ってしまったので、とりあえず感情を吐き出しておこうと思います。

 ねえ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード。

  彼はふと思い出す。かつて心を通わせた、一人の女性のことを。

 現代日本を舞台に遠野貴樹の中学時代から高校時代を経て「大人」になるまでを取り出した3つの短編からなる『秒速5センチメートル』は、”a chain of short stories about their distance”=「彼らの距離についての連作短編」の副題の通り、距離をめぐるドラマである。

 その距離とは、人間と人間とのあいだの距離なわけだけれども、それは空間的な距離であり、また心理的な距離でもある。『ほしのこえ』では空間的に隔絶した距離を物語に導入するためにSF的な道具立てが用いられたわけだが、『秒速5センチメートル』はそのような道具立てを用いなくとも、残酷な空間的距離を演出することに成功している。「大人」にとってはなんということのないほどの空間的距離=東京・栃木間の距離すら、「大人」になる前の少年少女にとっては途方もない距離でありうる。その少年少女の心象地理ともいうべき距離を背景に描かれるドラマが「桜花抄」であるわけだ。

 小学校卒業と同時に、転校によって東京から離れてしまった少女、篠原明里。彼女と親しくしていた遠野貴樹は、彼女と文通を重ねるが、彼もまた東京から鹿児島へと転校することになってしまう。鹿児島・栃木という絶対的な隔絶に至る前に、東京・栃木という、相対的には近い距離にいるあいだに、ひとたび邂逅を果たそうとする少年のドラマが「桜花抄」で語られるわけだが、そこで語られるのは「テクスト」を読むことで他者を理解しようとするドラマであり、その「テクスト」を読む、という所作が、『秒速5センチメートル』という作品自体における他者理解の基底におかれている、とすらいえるのではないか、と思う。

 「桜花抄」の序盤は、リアルな風景描写に、篠原明里の声が重ねることによって二人の距離感が提示されるわけだが、その明里の声の根拠となるのが、明里から貴樹へと送られた手紙で、その手紙の文面がその声そのものであることが明示される。我々は主にその手紙と、挿入される回想によって篠原明里という人間を、ひいては彼女と貴樹の距離感を知るわけだけれど、それはつまり、記憶とテクストによって仮構された〈篠原明里〉にすぎず、極端に言ってしまえば「桜花抄」の序盤から中盤にかけて現前するのは架空の、遠野貴樹によってつくられた〈篠原明里〉にすぎないとすらいえるのだ。そもそも、遠野貴樹の一人称で語られる「桜花抄」のなかでは、全編通して「遠野貴樹にとっての篠原明里」=〈篠原明里〉しか立ち現れていない、とすらいえるのかもしれない。

 距離と困難とを経て篠原明里と邂逅した貴樹は、身体的な接触を経て、「世界の何もかもが変わってしまったような気がした」と独白する。それは記憶とテクストのなかで仮構された〈篠原明里〉がもはやその姿を一変させてしまったからに他ならないのではないか。ゆえに、篠原明里との接触によって更新された〈篠原明里〉はもはやかつての〈篠原明里〉とは大きく位相を異にしており、ゆえに後者に向けて書かれた手紙は破棄されてしかるべきものとなる。

 このような仕方で、空間的な距離と、手紙という媒体によって生じる時間的な誤差とを通じて、人間は絶えずすれ違ってゆく。身体的な接触はその隔絶を回復しうるのかもしれないが、それはまた新たなすれ違いの出発点に他ならず、無数の接触を経てなお、そのすれ違いが回復されえないことすらある、ということが続く「コスモナウト」、「秒速5センチメートル」で提示される。

 「桜花抄」では他者というテクストを読む主体であった遠野貴樹が、今度は読まれる側に立つものとして画面に現前するのが「コスモナウト」だといえる。ここで読む側に立つ少女、澄田花苗が読むのは(遠野貴樹がそうしたような)記憶や手紙ではなく、遠野貴樹それ自身であるわけだが、その読解は常に満足なものたりえず、そしてその読みがある地点に到達した瞬間、彼女と貴樹との距離は途方もないものとして現前する。空間的な距離がいかに近かろうとも、心理的な距離を縮めることがかなわない、そのような残酷な距離のありようがある。ある一定の理解に到達することで、窮極的には理解できないことを理解してしまう、という苦悶。このような苦痛を描きえているという点で、『ほしのこえ』でみられたような、やがてひとつに重なってゆくものとして認識されていた人間関係は大きく書き換えられているのではないか、という気がする。

 そして最後を飾る「秒速5センチメートル」では再び遠野貴樹が読む主体として登場するわけだが、ここで彼が読むのはいってしまえば桜の落ちる速度である。人はしばしば熱い紅茶にマドレーヌを浸して食べた瞬間に思い出が去来して大変なことになるわけだが、遠野貴樹にとってのマドレーヌがすなわち舞い散る桜なのである。その桜がそれを語る少女の記憶を彼の脳裏に呼び起こし、一瞬のうちに彼を思いでのなかに連れ去る。それが踏切で偶然すれ違った女性に、少女の面影を映したのではないか。そうして無数の風景のなかにかつての美しかった日々の記憶を読むこと、それを通じて再び何かを目指して進むという、強迫的でありきたりな日常のなかへ還ってゆける、そのようにしてこの何かを読み/読まれる魂の彷徨はひとまず完結し、読むことの挫折と不可能性を遍歴した魂は読むことの自己完結性ゆえの救いを見出すのである。そうした物語として、『秒速5センチメートル』はある。

 

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【作品情報】

‣2007年

‣監督:新海誠

‣脚本:新海誠

‣出演

 

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