河野有理『日本史はいかに物語られてきたか』を読んだので感想。
本書は、戦後日本のなかで語られてきた日本史、とりわけその通史について、さまざま論者による語りを比較検討する試み。政治的立場を同じくするもの同士の語りが、しかしその歴史観に決定的な差異がみられたり、あるいは意外な論者同士の共通点が浮き彫りになったりする。
構成として現代からさかのぼっていくようになっていて、百田尚樹にはじまり平泉澄に終わる…と書くとものすごい極右っぽいが、実際には政治的立場の左右は問わずに議論の俎上に載せられる。目次は以下の通り。
序章 「日本史」の来歴をたずねて
第一章 百田尚樹『日本国紀』にはなぜ史観がないのか
第二章 渡部昇一『日本の歴史』が注視した皇室と国体
第三章 坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』が説いた護憲の論理
第四章 西尾幹二『国民の歴史』が拘った天皇抜きのナショナリズム
第五章 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』の一貫性と揺らぎ
第六章 網野善彦『日本社会の歴史』が持つ二面性
第七章 佐藤誠三郎『文明としてのイエ社会』が示した多系的な近代観
第八章 山口昌男『天皇制の文化人類学』の二つの焦点
第九章 小松左京『日本沈没』と梅原猛『隠された十字架』のコスモポリタニズム
第十章 吉本隆明『共同幻想論』はなぜ天皇制の自然消滅を楽観したか
第十一章 山本七平『現人神の創作者たち』に込めた日本教批判
第十二章 松本清張『象徴の設計』の官と司馬遼太郎『坂の上の雲』の公
第十三章 遠山茂樹『昭和史』と近代化論争
第十四章 家永三郎『くにのあゆみ』後に起きた史観の転回
第十五章 羽仁五郎『都市の論理』が夢見たアゴラ
第十六章 山川菊栄『武家の女性』と高群逸枝『女性二千六百年史』の対決
第十七章 平泉澄『物語日本史』はなぜ正史を批判したか
終章 歴史物語の自由競争は蘇るか
取り上げられている人物で、わたくしが実際に著作を読んだのは、上野千鶴子、網野善彦、山口昌男、小松左京、吉本隆明、山本七平、松本清張、司馬遼太郎くらい。だから単純に「知らないことがたくさん書いてある」本としておもしろく読んだ。
網野とかは没後20年を迎えて著作がいくつか岩波文庫にはいったり、『無縁・公界・楽』とかはもはや古典になっている感もあるので現役っぽい感じだが、本書は羽仁五郎とか、リアルタイムでは影響力もあって読まれたのだろうが、いまとなっては顧みられることもほとんどない(ように思える)論者も取り上げているのがおもしろい。
歴史語りというか史論の衰退へのある種の危機が本書を書かせたのだと思うが、その問題意識は與那覇潤なんかと重なる気もする。與那覇は引用されていたりはするのだが、『中国化する日本』は近年の史論として1章を割く価値があったのではとも思う。
史論を語るためには、なにをターニングポイントとするかという価値判断が必ず伴う。本書の指摘するように、百田『日本国紀』の貧困はその価値判断が極めてアドホックで、首尾一貫していない点にある。なにが歴史を動かすのか、そのことへのある種の賭けが史論だとするならば、その歴史の先端である現在を変えるために鍵がそのなかに埋まっているはずで、だから各々が自覚的におのれの史論を鍛えていくべき…と思うのだが、それが難しいのもよくわかる。
